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働きなさい

「整理番号29番のカードをお持ちのお客様、4番の窓口へどうぞ」
 私は三枚の求人票を持って立ち上がった。キリキリと胃が痛む。この一ヶ月空腹時に胃が痛い。歩くのもおっくうだ。
 4番窓口の職員に求人票を手渡す。
「えー、いずれも資材倉庫業務ですね。こういう仕事のご経験は」
「はい。電機会社の資材を長年やってました」
「面接となれば都合の悪い日はありますか」
「ありません」
 職員は電話した。しばらく相手と話して、すぐ切った。そして実に気の毒そうな顔をして私にいった。
「50を越した人はだめだそうです」
「年齢を採用の選考基準にしてはいけないことになっているはずですが」
「建前はそうです。しかし面接まで行っても別の理由で断られるのが現実です」
「もう一件あるでしょう」
「それは今から電話します」
 今度の電話は少し話し込んでいた。希望が持てそうだ。
「残念ですがもう決まったそうです」
 ハローワークの帰りにコンビニでカップめんを一個買った。今日の夕食だ。最近の食事はほとんどがコンビニのおにぎりかカップめん。
 お金がほとんどない。雇用保険が切れて三ヶ月が過ぎた。妻と別れて五ヶ月。三〇年勤めた会社が倒産して一年。その間、深夜のアルバイトを三ヶ月だけやった。それ以外はずっと求職活動をしていた。
 一年前のあの日会社が倒産した。社長は首を吊った。会社に資金はほとんど残っていなかった。わずかに残った資産も、社長の弟の専務が密かに売り払い金に換えて消えた。
 労働組合が急きょ作られ、私は副委員長になった。団交の相手をしたのは社長の息子の副社長だった。
 副社長は元来が無能だった上に父親に死なれたショックから立ち直れず、まともな交渉相手とはならなかった。債権者会議が開催されて労働債務が最優先で処理されるべきだが、バカ息子に怪しげな男たちがとりつき、ドサクサに紛れて、わずかに残った会社の資産は処理されてしまった。親父は首を吊ったが息子はJRに飛び込み3万人の足に影響を与えた。人様に迷惑をかけなかっただけ親父のほうがえらいといえるだろう。
 組合が気づいた時には社内には毛一本残っていなかった。退職金はおろか、最後の月の月給さえ出なかった。残った役員たちは、逃亡した専務、死んだ社長、副社長にすべての責任をおっかぶせてなにもしなかった。
 組合内からは粘り強く交渉を続けて、退職金は無理でも、最後の月給だけでも確保すべきとの意見も出たが、無能な連中相手に無い袖を振らそうというのも時間の無駄。結局、交渉はうち切って従業員全員は早々に会社と縁を切って、できるだけ早く再就職活動をした方がいいとの結論を見た。
 一日も休まなかった。退職した翌日にはハローワークに行った。
 雇用保険の受給手続きの説明会に参加する。ハローワークの職員は不正受給の心配ばかりしていた。
 説明会が終わり、帰りがけに求人検索用のパソコンで検索をする。適当な案件はまったくなかった。
 妻は子供を連れてさっさと実家へ帰った。それもいたしかたがないと私は思っている。妻は病弱で働けない。子供はまだ小学生だった。緊急避難的な処置だったと今でも思っている。結局、妻とはその後別れた。
 非常にさみしくなったが、身軽にもなった。これからは自分の口さえ食わせていけばいいのだ。
 そのアルバイトは新聞の折り込みチラシに求人広告が載っていた。
 日曜日の新聞は求人案内が多く掲載されているし求人チラシも多く折り込まれている。だから、ハローワークが休みだからといって求職活動を休んではいけない。新聞とチラシの案件を一件一件チェックする。私のような五〇代はほとんどが年齢の項目でNGだ。
 その中で一件だけ五〇代でもOKという案件があった。
 時給1200円。夜9時からよく朝5時まで。大手スーパーの配送センターで冷凍食品の在庫管理。1000円を超える時給はめったにない。
 月曜日になるのを待ちかね朝の9時に電話した。その日のうちの面接となった。
「仕事は冷凍倉庫内での仕事です。防寒着は貸与しますが肉体的にはきついですよ。いいですか」
「いいです」
「いつから来ていただけますか」
「明日からでも」
「それでは明日から来てください。その時フォークリフトの免許証を持って来てください」
「私、フォークリフトの免許は持ってないんですが」
「え、求人のチラシにはフォークリフトの免許要となってますが」
「いいえ。そんなことは書いてません」
 私は持参したチラシを面接担当者に見せた。
「あ、これは広告代理店のミスだな」
 帰ろうとすると呼び止められた。
「よろしければフォークを使わない仕事もありますが」
「どんな仕事ですか」
「入荷した冷凍食品を棚に小分けする仕事です。ただし時給は800円ですが」
「やらせてください」
 大変な仕事だった。フォークリフトで荷降ろしされた冷凍食品をパレットから棚に手運びで移す仕事だ。
 寒い倉庫内で、パレットから棚まで平均10メートルの距離を1個20キロの荷物を運ぶ。それの繰り返し。五〇を超えた身体には非常にこたえた。これを夜9時から翌朝5時まで。毎日くたくたになった。これで時給800円。月収で15万に届かない。
 このアルバイト、三ヶ月やった。三ヶ月しかやらなかった、というより三ヶ月もやったというのが実感である。このあたりが限界だった。これが三ヶ月だけやった深夜のアルバイトだ。
 アルバイトを辞めてから熱心に求職活動を展開した。
 前の会社では資材業務を二五年やった。だから、在庫管理、生産管理、購買仕入れ、外注管理、倉庫業務などの仕事の正社員の案件を探した。しかし五〇歳以上の案件そのものが少なく、総務、営業などの職種に比べて資材業務の求人は少ない。ぽつりぽつりある資材の求人もほとんどが四〇代以下。
 退職金がない。元々薄給だったから貯金もごくわずかしかない。頼りは雇用保険だけだったが、それも切れた。
 求職活動は考えられる限りの活動を実行した。管理職の経験はないが購買課長をやっていたと偽り人材銀行に登録した。人材銀行の勧めで「交流プラザ」という再就職支援セミナーにも参加した。人材紹介会社には三〇社登録した。その登録もインターネットでできるが、できる限り書類を持参して面談をするように心がけた。その方が相手に印象づけて案件を紹介してもらえるかも知れないと判断したから。
 熱心な求職活動が功を奏してか面接だけはたびたび応じてもらえるようになった。
 雇用保険が切れてわずかな貯金を食いつぶして生活する。
 求職活動は結構金がいる。まず、交通費。面接、人材紹介会社での面談。ハローワーク通いなどなど。面接の相手企業ははほとんどが知らない土地にある。面接に遅刻は絶対にできない。だから、前日には必ず下見に行くようにしている。
 郵便代も馬鹿にできない。面接してくれる会社はその時に持参すれば良いが、とりあえず書類を送ってくれという会社が多い。履歴書と職務経歴書を送らねばならない。定形外で120円はいる。求人情報を公開している企業以外にも書類を送る。DMという形で自己PRの手紙を添えて、これはと思う企業に書類を送る。
 パソコンは持っていなかったが、交流プラザでぜひとも必要といわれて、最新型のウインドウズXPのパソコンを買った。これが一番お金がかかった。確かにパソコンは必要だった。
 履歴書は手書きで書いたが、職務経歴書はワープロで作成するべきだ。それに職務経歴書まで手書きしていると大変な手間だ。
 また求人検索はもちろん、面接に行くときの交通機関の調べ、人材紹介会社の検索、それに面接の結果をメールで知らせてくる企業もある。絶対にインターネットを開通しておく必要がある。
 携帯電話も求職活動の必需品。応募先からの連絡がいつ入るかわからない。私に連絡がつかなかったら、私の次の人が採用されるかもしれない。
 インターネットと携帯電話だけで月1万円近くかかる。
 収入はゼロ。求職活動で金はどんどん出ていく。当然、貯金は見る見る減っていき底が見えてきた。
 一刻も早く収入を得るために求職活動の手を弛めるわけにはいかない。熱心に求職活動をすればするほど金がいる。
 まず食費を削った。男の一人暮らし。私は料理なんか知らないので外食が多かった。
 外食を止めて食事は、ほとんどがカップ麺かコンビニのおにぎり。胃の調子が悪く食べないこともたびたび。
 ハローワークへは電車ではなく自転車で行くようにした。面接に行く交通費だけは残しておかなければいけない。
 ところが、その面接がまったく無くなった。誕生日が過ぎ一つ歳を取った。五〇を過ぎた者の求人は少ない。それが一つ歳を取るということは致命的なデメリットとなる。
 登録してある人材紹介会社からはなにもいってこない。ハローワークに行っても手ぶらで帰ることが多くなった。
 皮肉なことに金を使うことが少なくなった。そのかわり金がなくなった。
 携帯電話とパソコンを手放した。月に一万円も出せない。
 とりあえず現金が必要。短期でもよいからアルバイトを探した。ところが五〇を超えるとアルバイトすらなかなかない。以前アルバイトをやった冷凍食品の倉庫にも電話したが、私がしていた仕事は別の人がしている。
 ようやく見つかったアルバイトはホームセンターの資材置き場の整理だった。日曜大工用の材木やセメント、ブロックなどを倉庫内で整理整頓する仕事だった。
 一週間だけのアルバイトだった。乱雑だった倉庫内の整理が終わると私の仕事が無くなった。
 胃の調子がますます悪くなった。空腹時にキリキリと痛む。体調も良くないのでハローワーク通いも途切れがちになった。家で寝ていることの方が多い。
 まず家賃が払えなくなった。私の家は県営住宅で安いのだが、金がないから払えない。
 次に電話を止められた。ガスも止められた。そしてとうとう電気水道も止められた。
 胃が痛い上ろくな物を食べていないので身体がだるい。数日前から真っ黒い便がでるようになった。病院に行きたいが金がない。
 身体の調子が良い時にハローワークに行くが私にあう案件はまったくない。新聞も取らなくなったので折り込みの求人チラシを見られない。コンビニの入り口にある無料のチラシを見たが五〇を過ぎた私ができるアルバイトはない。
 思いあまって福祉事務所に出かけた。生活保護の申請をした。私は申請は受理されるもの確信していた。私が生きて行くには生活保護を受給するしか選択肢がない。
 結果は申請却下。理由は「働きなさい」
 胃が痛くて目が覚めた。寒い。暗い。二月の早朝は寒い。それが地下街の路上となるとひときわ寒い。
 一週間前に県営住宅を出た。持てる衣類をすべて持って家を出た。さすがに地下街の路上で寝るのは最初は抵抗があった。できるだけ人気の少ない深夜に人気の少ない場所で寝た。地下街の行き止まりのトイレの前が、私が落ち着いた場所だ。
 突然嗚咽した。胃から熱いものがこみ上げて吐いた。開いた両手にたまったのは真っ黒い液体だった。それは血液というより墨汁のような液体だった。
 意識が遠くなった。
 
 地下街のトイレの前でホームレスが死亡している記事が新聞の片隅で小さく報道された。死因は出血性胃潰瘍による失血死。福祉事務所は「生活保護の申請はあったが、まだ五〇代であり働けると判断した。対応に問題はない」とのコメントを出した。
 
 日本国憲法第三章第二五条
 すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。
 
 
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1月16日(水) また熱帯魚を飼いたいな

 阪神大震災の前は熱帯魚を飼っていた。90cmの水槽が二つあった。ここ神戸市東灘区は震度7の激震地帯。もちろん水槽は二つとも倒壊。部屋中水びたし。砂まみれ。水草だらけ。あちこちに魚の死体が散乱。トイレの棚の上に餌用の糸ミミズを置いていたから、トイレ中ミミズだらけ。それに、倒れる方向がこっち側だったら小生の顔面に水槽が直撃しただろう。
 そのままの状態にしておいて避難所に。数日後、電気が復旧するというので帰宅したら、なにやらキナ臭い。電気が流れた後だった。水槽保温用の電熱ヒーターが加熱していてあやうく火事を出すところだった。
 と、いうわけで熱帯魚飼育は家族に反対され今はやってない。しかし、あんなひどい地震はもう神戸で起こらないだろう。熱帯魚飼育を再会したいと思っていたら今度は小生がリストラされて収入が大幅減。金魚と違って熱帯魚は結構金がかかる。電気代がバカにならない。
 二つ水槽を持っていたが、一つはテトラ、ダニオ、プラティ、スマトラといった比較的小型の魚を入れていたキビキビ水槽。もう一つはエンゼル、グーラミィ、シクリッドといった少し大きめでゆったり泳ぐ魚のユーガ水槽。
 いろいろな魚を飼ったが一番おもしろいのはナマズ類。コリドラスという小型のナマズ類がいる。いつも水槽の底をはいまわって、他の魚の食べ残しや底に沈殿しているゴミを食べてくれる。水槽の掃除屋さんである。コリドラス類は多くの種類がいて、小さくてかわいく水槽の底で眼をクリクリさせている。その様子が天真爛漫で見ていてあきない。
 サカサナマズ。この魚はいつもさかさまになっている。底の餌を食べる時だけ真っ直ぐになる。アフリカのナイル川の魚で世界の珍魚といえる。昔の人も珍しいのかピラミッドの壁画にも描かれているとか。
 トランスルーセント・グラス・キャット・フィッシュ。長い名前だがこれもナマズ類。透明ナマズ。体が透き通っていて骨が見える。群れになっていつも水槽の中ほどでゆらゆら漂っている。
 ピクタス。上記のナマズ類は比較的おとなしいが、この魚は活発に水槽中を泳ぎまわる。長いひげ大きな眼。この魚を入れるとにぎやかでいいが、小さな魚と同居させると食べてしまう。


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