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とつぜんコラム№74 優しい「時間」はどこへ行った 

 2008年になった。年が変わったとはいえ、それは人間だけのこと。自然にとっては、なんの関係もない。河原の石は、去年の石も今年の石も同じ。川端の桜の木も六甲山のイノシシも年が変わったことなどまったく意に介していない。彼ら、人間以外は、生まれて、子孫を残して、そして死んでいく。時間に節目をつけ、長さを測る物指しを作るのは人間だけ。
 人間が時間に節目を作るのは、キリの良いところでいったんリセットして、気分を替えて、生活をより良くしようという知恵なのだろうか。ところが時間は過去から未来へと、切れ目も節目もなく永遠に続いて行く。
 去年にあった問題は、今年も問題としてわれわれの頭を悩まし続ける。年があらたまっても自動的に解消するわけではない。
ところが、昔は、自動的に解消すると思っていた。「時間」は万能の薬であり、どんなものでも完璧に修理する練達の職人だった。苦しくても、そのうち楽になる。貧乏でもがまんしていれば、そのうちきっと豊かになる。事実、その通り、時がたてばなんとかうまく行っていた。「時間」は常に私たちの味方であり、私たちを優しく包み、より良い未来へと導いてくれた。
 ところが新しい世紀になってから「時間」は私たちの味方ではなくなった。負った傷を時間は癒してくれない。貧しい人を決して裕福にはしてくれない。優しい母であった「時間」は厳格な教師となった。この教師は厳格な上、非常にえこひいきのひどい教師である。
気に入った生徒には優をたくさん与え、笑みをたたえながら単位をくれる。ところが気に入らない生徒は、血のにじむ努力をしても単位をくれない。鬼の表情を見せて落第させる。そして一度落第した生徒は絶対卒業させない。学校に残すこともしない。退学させて地獄に突き落とす。
 正月だから、もっと明るい話題を取り上げたいのだが現実だからしかたがない。
 小泉時代の「カイカクなくしてセイチョウなし」路線は失敗だった。確かに景気は良くなったように見える。企業は大きな利益を上げている。しかし、この利益を得るために企業は正社員を減らし、派遣、契約といった切り捨て自由の非正社員に労働力を切り替えて行った。残った正社員も、サービス残業、長時間労働などの人権を無視した労働を強いられている。
 しかも、こうして得た利益はほとんど労働者に配分されることはない。多くの労働者はワーキングプアに陥っているのが現実。利益は経営者、株主たちで配分され、貧乏人はますます貧乏に、金持ちはますます金持ちになっていく。非常にカビ臭いいい方だが、ブルジョワジーとプロレタリアートの格差が広がり、古典的なマルクス・レーニン革命前夜のような状況である。
 規制緩和も考え物である。小生は原則としては政府による規制はある程度必要だと考える。
自由に企業を興し新分野を開拓していくことは、どんどん奨励しなくてはいけない。しかし、既成の企業は規制が必要と考える。企業は自己中心的で自分自身の利益しか考えない。彼らにモラルを求めてはいけない。モラルか利益かの選択をすれば利益を選ぶ企業が多いことは、昨今の不祥事を起こした企業の多さを見ればわかるだろう。彼らは規制のワクでしっかり押さえておくべし。彼らは消費者、顧客、労働者の利益など考えていない。経営者、株主の利益しか頭にないのだ。
「時間」が優しい母に戻るためには、何が必要か考えなくてはいけない。それが2008年の課題だ。
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1月3日(木) 初出勤

 3が日のラスト、1月3日。今年初出勤。とはいっても小生一人出勤。溶接用の液体酸素と液体炭酸ガスの貯蔵施設の管理責任者なので、長期休暇中でも三日に1度はCEタンクの様子を見て点検しなくてはならない。午前9時に出勤。点検。異常なし。もし異常があれば休み明けから工場全体が仕事ができない。しっかり点検メンテナンスをしておかなくては。10時に退社。
 午後は寝正月。しかし、今年の正月のテレビは観るべきものがない。愚にもつかない新春スペシャル番組ばかり。駅伝やサッカーなんぞのスポーツは興味がないし。映画もあまりいいのを放映してくれない。
 落語、上方落語が全くないのは極めてさみしい。昔は「新春、米朝一門会」などという番組をやってくれたが。今年はない。テレビの上方落語は必ずDVDで保存している上方落語ファンとしては収穫ゼロの正月だ。
 しかたがないので、ツタヤで「探偵ナイトスクープ」のDVDを借りてきて観ている。「養老町の星幸ちゃん」「水泳+暗算日本1」「巨大シジミ」「山のオヤジ富田林のパラダイス」なんかを観て大笑いする。
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