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とつぜんコラム №213 趣味ってなんやろ?

 小生の趣味は、今は四つである。SF,上方落語鑑賞、阪神タイガース応援、料理の四つだ。
以前はドライブと熱帯魚も趣味であったが、今はやめている。ドライブは、リストラされたときに大幅な収入減となり車を手ばなして以来ペーパードライバーだ。もう10年以上車を運転していない。8月運転免許の更新に行くが、車を持つことはもうないだろう。
熱帯魚は阪神大震災以前は60cmの水槽を二つ持っていたが、震度7のゆれで水槽が二つとも倒壊。部屋中水びたし、魚の死体だらけ、底の小石と器具が散乱、大惨事となった。それに懲りて熱帯魚は持っていない。
で、今は上記の四つの趣味を楽しんでいる。まず、SF。これは子供のころからだから、もう半世紀以上SFファンをやっている。こうなると小生にとってSFは趣味というより、生き方そのものといっていい。SFが趣味といっても具体的に何をしているかというと、読書と交流である。SFとは空想科学小説であるからして、元来は小説である。最近は浸透と拡散が極限まですすみ、アレもSFこれもSFと収拾がつかなくなって来たが、SFのキモは小説でこそ表現できると小生は考える。だから小生はSF本を読む。
だまってSF本を読んで満足しておればいいものを、最近はおとなしくなったが、若いころはあちこちとSFの臭いを求めて出歩いていた。自然と友人知人が出来た。SFファンになって失ったモノもある。時間を取られた金を使った。でもSFファンになってできた一番の財産はこの知人友人ではないだろうか。
上方落語好きになっても長い。高校生のころ初めてステレオを買った。そのステレオで初めて聴いたレコードが、東芝EMIから出ていた桂米朝師匠のレコードである。LP一枚に「地獄八景亡者戯」が納められていた。それから、もっぱらテレビでの鑑賞だ。
小生、録画機器を買ったのは比較的早く、ソニーのベータマックスであった。そのころ桂枝雀師匠が「枝雀寄席」という番組をもっておられた。それをせっせとベータマックスで録画した。で、ベータマックスが消滅。ビデオテープをVHSに転写、さらにそれをDVDに移し変え。小生の枝雀落語のコレクションは、録画機器メーカーに振り回されたのである。小生は上方落語好きではあるが、鑑賞専門で、素人ながら高座に上がって一席演じようとは思わない。
阪神タイガース応援。この趣味が一番長い。これは、もう、趣味というより、先天性の病気といった方がいいだろう。小生が生まれたのは西宮市川添町。阪神電車の駅でいえば香櫓園。香櫓園から東へ各駅停車で西宮、今津、久寿川、甲子園。と、こういう所で小生はこの世に生を受けた。東から風が吹けば甲子園の歓声が聞こえてくるような所である。小生は生まれた瞬間、タイガース菌に感染したと思われる。まったくもって困ったものである。
小生の年長の従兄は関大の野球部であった。村山実さんとチームメイトであった。従兄の母、つまり小生の伯母の葬式に村山さんも参列されておられた。いま、思い出すに、村山さん、いしいひさいちの漫画の村山さんにそっくりであった。
ともかく、このタイガース病、一生治りそうもない。これは先天性の病気なのだから阪神タイガースの成績とは関係ない。これからずっと、今年も、来年も、再来年も、未来永劫、阪神タイガースが最下位であったとしても治らないであろう。
料理。これは上記三つの趣味にくらべて新しい。といっても30年近い。漫画「クッキング・パパ」が初期で、雑誌「dancyu」が創刊された時期だ。まだ、料理する男は珍しい時代であった。この料理という趣味が、小生の趣味のうちで最も趣味らしい趣味といえるのではないだろうか。
趣味。別になくても人間は生きられる。やらやくても、誰にも叱られない。ある日とつぜん止めたって、なんの弊害もない。例えば、小生はSFの関連で小説を書いているが、依頼を受けたプロの作家ではなく、趣味で書いている小説だから、書かなくたって食べていける。ようするに趣味はべつにしなくてもいいモノだ。しかし、止められない。趣味ってなんだろう。  
       


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とつぜんコラム №212 引きこもりを考える

 不幸とはこういうのであろう。中央省庁の事務次官。官僚のトップである。位人臣を極めて、今は退職し悠々自適の余生を送る幸せな人だと見える。ところが自分の息子を手にかけて殺害するという人として最悪の不幸を招いた。
 息子は44歳という年齢になっても引きこもりで、働きもせずゲームざんまいの生活であったとか。中学のころから両親に暴力をふるっていたとのこと。
 また先日の川崎の事件の犯人も51歳で引きこもっていた。両方の事件とも中高年になっても引きこもっている男が、被害者であり犯人だ。いい年になっても働かず、保護者に寄生して生きている。クズであると、断定するのはたやすい。そんなクズはとっとと家から放り出せばいいんだ。と、単純に考えていいのだろうか。たとえ、当該人物を路頭に出したとしても、同じような事例はあとを絶たないだろう。
 肝心なのは、なぜ引きこもるのか。家族が引きこもってしまったらどうすればいいのか。引きこもり=犯罪予備軍との誤解があるが、上記のような例はごくわずかである。ほとんどの人は社会の片隅でひっそりと生きている。いま、現在は生きているが、近い将来どうなるか。寄生すべき親は、年取って、引きこもっている子供のめんどうを見れなくなる。当事者にとってはたまらなく不安な日々だろう。
 引きこもりの原因はさまざまだろう。親との齟齬、社会との不適合、地域住民とのトラブル。最初はごくささいなことだっただろう。ほとんどの人は、かような目にあっても、なんとか折り合いをつけて社会で生きていく。ところが、これに耐えられない人が引きこもりとなるのだろう。こういう人を軟弱なヤツめと非難するのはあたらないと思う。生まれつき皮膚の弱い人もいる。そういう人は少しの刺激で、かぶれや湿疹を発症する。そういう皮膚の弱い人はそれなりの治療療養が必要だろう。引きこもりもこれと同じではないか。こういう人は弱いやつめと叱責するよりも、適切な「治療」が必要なのではないか。引きこもりは犯罪予備軍では決してなく、病人ととらえた方が正鵠を得ているのではないだろうか。



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とつぜんコラム №211 自動車はほんとうにだれでも運転できるのか?

昨今、悲惨な交通事故がよく起こる。きのうは散歩中の保育園児の列に事故車が突っこんで二人の幼児が亡くなった。また、先月は東京の池袋で老人が運転する車が暴走、若い母親と幼い娘が犠牲となった。その翌日には、ここ神戸の三宮でもバスが若い人二人の命を奪った。三宮の事故現場は小生も毎日のように通るところだけに人ごととは思えぬ。
 自動車は現代においては、欠かすことのない文明の利器だ。この便利な自動車は、免許さえあればだれでも運転でき、その便利さを享受することができる。
 この「だれでも運転できる」機械は、ほんとうに「だれでも」運転していいものだろうか。
 小生はクレーンと玉掛け、フォークリフトの免許を持っていて、毎日、仕事でそれらの機械を使っている。もちろん、これらの機械は試験を受けて合格した者しか使えない。小生はいずれも10年以上の経験がある。プロといっていいだろう。小生のいるような職場では、危険だから、素人が、たとえ免許を持っていても、かような作業を行うことはない。
 毎日、トン単位の金属を、ワイヤーで玉掛けしてクレーンで吊る。またフォークリフトでトラックから荷降ろしをする。その荷物の重量はなんトンか、重心はどこにあるのか、常にそういうことを頭に入れて作業する。万が一、事故が起これば重大な結果となる。だから、重量物とはいかなるモノかはよく判っているつもりだ、そういう観点で街を見れば、恐ろしい状況であることがよく判る。
 1トンを超える金属のかたまりが、時速40キロや60キロ、ヘタすると100キロを超えるスピードで走りまわっているのだ。それも手を伸ばせば触れるぐらいの距離を。実に恐ろしい。しかも、それらの機械を操縦するのに熟知したプロが、ではない。きのう免許を取ったばかりの人も、そのトン単位の金属のかたまりを時速100キロで走らせているのだ。
「あのうエンジンブレーキって、どこについてるの?」と聞く人とか、FF車の後輪にチェーンを巻いている人とか、そういう人が車の運転をしているのだ。
小生の職場で「玉掛け」という言葉も知らない人が、3トンの鋼材にワイヤーを1本だけ重心位置も考えずに巻きつけ、フックにワイヤーを半分だけかけて、クレーンのオペレーターに地切りもせずに巻き上げの合図を送ろうとすれば、小生は青い顔してすっとんで行き、どつき倒してでも、そやつを止めようとするだろう。そのままやらせておけば死人が出る。
いまの日本の道路ではこういうことが行われているに等しい。実におそろしいことだ、
自動車という機械はいかなるモノか、それを運転するにはいかなる技量知識が必要かようく考える必要があるのではないか。
運転免許の試験をもっと難しく、なおかつ、免許更新のさいも厳格な審査が必要であると考える。
高齢者のアクセルとブレーキの踏み間違いの事故が多い。これはオートマチック車だけの事故で、マニュアル車ではこういう事故は起きない。高齢者の運転はマニュアル車限定にすべきだろう。  

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とつぜんコラム №210 選挙というやり方

 いま、統一地方選挙の最中である。ここ神戸でも、兵庫県会議員選挙と神戸市会議員選挙が行われている。つらつら立候補者たちを見るが、これ、という人はいない。この人にわれわれの代表になってもらって、県や市の為政を任せたい。と、いう人がいないのだ。まことにもって困ったものである。
 当選させたい人はいないが、落選させたい人はなん人もいる。で、選挙のたびに思うのだが、マイナス投票ってできないだろうか。今の制度では、投票すれば得票数にプラスされ当選につながる。これと反対に、落選させたい候補者に投票すれば、得票数がマイナスとなり落選につながる。こういうマイナス投票があれば、小生も選挙のたびに頭を悩ますこともないだろう。と、いいつつも小生は選挙には必ず行く。選挙権を得てから皆勤といっていいだろう。選挙は皆勤だが勝率はたいへんに悪い。小生の投票する候補者はあまり当選しない。
 ところで、近ごろは地方議会の議員になる人が減っているそうな。任期満了になっても立候補する人がいなくて、無投票で議員が決まるとこともあるとか。都会ならともかく、地方の田舎なら、だいたいが過疎で人がいない。このあたりにも日本の地域格差がでていて大きな問題だ。
 小生自身は立候補したことはもちろん、選挙に関係したことがないから、選挙はいかなるモノかよく知らない。
もう故人となられたが、SFの古い友人で町会議員を経験した人がいる。その人は島根県の山間部の住人で、その地ではちょっとした名士であった。その人の話によると、田舎の選挙は壮絶なモノらしい。それまで親友とか、水魚の交わりだとかいっていた人と人が、選挙で違う陣営になると、親の仇かと思うほど敵対してあい争うそうだ。そして、選挙が終わっても、そのしこりはずっと残り、終生、対立は続くとか。狭い世界だから、そのドロドロの遺恨は濃く根深いものとなる。
民主主義。読んで字のごとく民が主の主義だ。封建時代や独裁国なら、君主や独裁者が一人で為政を担当していた。この場合、1人の人間が国の方針を決めていた。その人が明日から税金を倍にするいえば、そのとおり明日から税金は倍になる。
今は民主主義だ。君主や独裁者ではなく、民、国民、民衆、人民が国の方針を決めるわけだ。ところが君主独裁者は1人だが、民、国民は多数だ。とうぜん、いろんな意見を持った人がいる。明日から税金を倍にすべしという人がいる。いいや、税金は半分にすべし。いやいや税金なんてものはなくすべきだ。これじゃ、国の方針は決められない。で、一番多い意見のやり方で決めよう。と、いうのが、今の民主主義のやり方だ。本来は、国民ひとりひとりの意見を聞いて集約して決めればいいが、億といる国民でそのようなことは不可能。で、それぞれの意見を持つ代表者をつのり、その代表者にしかるべきところで意見をいってもらって、国の為政を司るというわけだ。
 その代表者を選ぶのが選挙なのだが、果たして、この選挙なる方法はベストなやり方であろうか。あのヒットラーも選挙でえらばれた独裁者なのだ。国民、大衆がものごとの真実を見通す慧眼の持ち主ばかりならいい。人類という動物が「英知」を持っているのならいい。しかし昨今の状況を見れば、人類なんてモノはしょせんは2足歩行し火を使うようになった猿にすぎないといわれてもしかたがないだろう。かような動物に地球の将来を左右する為政者を選ばせていいのであろうか。
選挙というやり方がベストか?
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 とつぜんコラム №209 リーダーの決め方

 動物が単独で生存するのならば問題はない。ところが複数の動物が生存していると群となる。動物が群となると事が複雑になる。それぞれが他を気にせずてんでばらばらに生きているのならいい。ところが動物の群には必ずリーダーなる存在が発生する。イワシの群にも猿の群にもリーダーはいる。その方が全体としてコトが有利に運ぶからだろう。リーダーは群を導き群のメンバーの安全と快適を保証して、見返りにリーダーとしての権益を得る。
 いまのところ人間は地球の生物のトップに立っている。その人間はいうまでもなく群をつくる動物だ。とうぜん人間の群にもリーダーはいる。
 文明勃興以前は、人間のリーダーの仕事は、猿のリーダーとさして変わらない。リーダーの仕事は群に安全を保ち、食料の確保に頭を使い、群がバラバラにならないようにまとめることだ。このためリーダーにもとめられる条件は腕力だろう。当初は暴力を背景に群を支配したのであろう。
 文明が興り、人間の群はそう単純なものではなくなった。群の安全を保証し、食料を過不足なく供給し、子供を産み育て次世代を養育するには、腕力だけではなく政治力も必要になった。そこで人間の群のリーダーは政治力と腕力=暴力を兼ね備えたリーダーとなり、それが酋長だとか族長とかいわれるようになり、それが発展し領主とか王とか皇帝といわれる存在になったのだろう。
 近世になって民主主義という制度ができて、群のリーダー=為政者は腕力にモノをいわせて、みんなを屈服させてなるモノではなく、投票によって為政者を決めるということになった。と、いうことで、群のリーダー=為政者を決める最も良い方法は民主主義ということになっている。いまのところは。
 で、この民主主義というのは果たして本当に最良の方法だろうか。この方法だと群のリーダーを大衆が決めるということだ。高潔な人格高邁な知性を持つ人から、品性下劣、無知蒙昧な輩。わたしやあなた、あのおじさん、このおばさん、みんなでよってこってリーダー=為政者を決めるわけだ。で、国民が優等生ばかりの国があったとして、その国の為政者が理想的な為政者になるかといえば、そうではないのが複雑なところだ。はたしてこの「一般大衆」なるものは信頼していいものだろうか。
 いままで「一般大衆」が最良の為政者を選出してきただろうか。もしそうなら世界はもっといいものになっているだろう。では民主主義に替わるもっといい為政者を創る方法があるだろうか。ここらで本気で考えなくてはいけないのではないか。
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とつぜんコラム №208 なぜ女性落語家に襲名がないのだろう

 桂きん枝師匠が、師匠の五代目桂文枝師匠が名のっていた、桂小文枝の名跡を継いで、六代目桂小文枝となる。きん枝師匠も芸歴50年の大ベテラン。また昨年まで上方落語協会の副会長を務め、上方落語の重鎮といっていい落語家である。そんなきん枝師匠が小文枝となるのはなんの不思議もなく、慶事であると小生も思う。
 しかし、可能ならば、小生は桂あやめ師匠に六代目桂小文枝を継いでもらいたかった。あやめ師匠やきん枝師匠の師匠五代目桂文枝は、小文枝になる前は桂あやめを名のっていた。いまの桂あやめ師匠は3代目である。
 上方落語には江戸落語にある「真打」という制度はない。代わりに襲名を行う。この落語家も大きくなった。そろそろ、いまの高座名からそれなりの名前にするべき。と、いうことで襲名をする。師匠の名前を継ぐこともあるし、埋もれていた古い名跡を復活することもある。このたびの桂小文枝、それに笑福亭松喬、桂歌之助、桂春団治などは前者、桂塩鯛、桂米団治、桂ざこば、などは後者だ。ところが女性落語家で襲名をした人はいない。江戸落語で真打になった落語家はざっとネットで調べた限りでは3人だそうだ。女性の落語家に数が少ない上に、江戸と上方の落語家の数そのものが違うので、いちがいにはいえないが、ことジェンダーということを考えると江戸落語界のほうが上方落語界より進んでいるといっていいだろう。
 落語は男性のモノであった。男が登場人物を演じるのを前提として作られている。もちろん落語に女性も登場する。その女性をいかに女っぽく演じるのも落語家の腕である。このあたりは歌舞伎の女形に通じる。
 そんな落語界に風穴を開けたのが、露の都師匠だ。確か都師匠は初めての女性落語家だ。この露の都師匠が開けた風穴をさらに大きくしたのが桂あやめ師匠である。あやめ師匠が登場するまでも都師匠や何人かの女性落語家もいた。しかし、その女性落語家たちは、女性が男の創った落語を演じるというモノで、女性ならでは感性は感じられなかった。彼女たちの落語は男でもできる落語である。
 桂あやめ師匠の落語は女性しかできない。あやめ落語の女性は100%女性である。女が女を演じる。たとえば古典落語の「ちりとてちん」上方でよく演じられる演目である。なんでも知ってる。なんでも食べた。という知ったかぶり男が、豆腐の腐ったのを長崎名産といわれて食べさせられる噺である。あやめ師匠はこの「ちりとてちん」を「ちりとてちん 芸者編」として演じられる。この、あやめ版ちりとてちんは、知ったかぶりする人物が女性である芸者だ。あやめちりとてちんの知ったかぶり芸者きねつるが、じつに魅力的なのである。なぜきねつるが知ったかぶりをするか。あやめ師匠はそのことに噺の中で言及しないが、なぜか判る。それがけなげでかわいらしいのだ。オリジナルの「ちりとてちん」では知ったかぶり男のイヤミさが強調され、それが腐った豆腐を食べさせられて、おかしいのである。「ちりとてちん 芸者編」では、そういうおかしももあるが、きねつるなる女性の魅力もこの噺の聞かせどころとなっている。これは桂あやめ師匠が女性落語家だからできる落語である。あやめ師匠は女性落語というまったく新しい落語を開拓した落語家といっていいだろう。そんな桂あやめ師匠も、それなりの名跡を襲名してもいいころだろう。桂花枝→桂あやめ→桂小文枝となってもいいのではないか。
 男女平等が叫ばれて久しい。職業仕事に男女の格差はだいぶんなくなった。かって看護婦さんといって女性がほとんであった看護職も男性の看護師さんも増えた。小生も入院経験があるが、男性看護師さんにお世話になったこともあるが、女性看護師の場合、小生と看護師さんとの間に薄い壁があり、壁越しにコミュニケーションをとるという印象であったが、男性看護師さんの場合は、その壁がない。かまえずに接触できた。女性看護師さんにない良さが男性看護師さんにはあった。
 とはいいつつも、先般の医学系大学の女性受験者への差別に見られるように、不合理な女性差別はまだまだ根強く残っている。昨年、問題になった女性を相撲の土俵にあげないこともそうだろう。上方落語の女性落語家襲名の件も絶対数が少ないということもあるが、そこに女性差別はないことと信じる。                            

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とつぜんコラム №207 ハード面は良くなった。ソフト面は?

 新しい年が始った。小生が子供のころの正月の新聞には、バラ色の未来があふれていた。真鍋博や小松崎茂のイラストで未来の日本が描かれていた。東京と大阪を3時間で結ぶ夢の超特急。本州と四国を地続きにする夢架け橋。ビルの谷間を縦横に走る高速道路。
 未来はバラ色だった。未来は、将来は、何年後かは、必ず今より、豊に、楽に、楽しく、より良い世界、より良い日本、より良い生活が待っている。だから、いま、がんばろう。いまは苦しくても、いまは貧しくても、必ず良くなる。未来を信じて生きていこう。
 で、未来になった。新幹線も明石海峡大橋も出来た。では、世界は、日本は、私たちの生活は良くなったか。どうだろう。
 インターネットによって即座に世界中の情報が入手できる。携帯電話の普及で、いつでもどこでもだれとでも、簡単に意思の疎通ができる。おばあさんは川に洗濯に行かなくても家でらくらく洗濯機で洗濯できる。おじいさんは山に柴刈りに行かなくても、コックをひねれば火が出る。
 確かに便利にはなった。便利にはなったが、豊かにはなったであろうか。そして世界は、日本は、良くなったであろうか。確かに生活は良くなった側面はある。しかし、それはハード面が良くなっただけでソフト面はどうだろうか。
 いや、「世界」や「日本」という「容器」を見れば「良く」はなっているであろう。うん。確かに「良く」はなっているようだ。で、聞くが、その「容器」に入っている、肝心の「人間」はどうなのだ。「良く」なっているか。ハード面は良くなっている。医学生理学の進歩によって、たいていの病気は治る。癌もいずれ完治するようになるであろう。「人間」のハード面は、故障しても修理可能で、耐用年数は大幅に伸びた。文明社会では。では「人間」のソフト面はどうだろう。
 災害、戦争、疫病、飢饉、事故。人類はいままで幾多の危機を乗り越えてきた。だから、あなたが、わたしが、ここでこうしているのだ。もし人類がバカならとっくに絶滅して、ここでこうして駄文を書いているのは進歩したゴキブリかもしれない。
 と、いうわけで今までは生きてきた。ではこれからはどうであろうか。だいじょうぶ。人類の英知と知恵で乗り切るであろう。で、あれば良いが、はたしてそうだろうか。人類に英知と知恵はあるのだろうか。
 今まではなんとかできた。災害にしても戦争にしても疫病にしても、これから起こるモノと比べてみれば限定的といっていいのではないか。今まで最大の戦争といえば第2次世界大戦であろう。あの戦争でも戦火のない土地もあったのだ。14世紀流行ったペストにしても今なら抗生物質によって対応が可能だ。
 今までは。これからはどうであろうか。だいじょうぶだろうか。だいじょうぶではないのではないか。
 第3次世界大戦が起こってもだいじょうだろうか。ま、普通に考えてだいじょうぶではない。起こればだいじょうぶではないが、起こすほど人類はバカではない。そうだろうか、そんな楽観できるほど人類は賢いだろうか。昨今の情勢を見るに暗澹たる気持ちにならざるを得ない。自分さえ良ければ良い。わが国さえ良ければいい。
 まったく困ったものだ。
                             

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とつぜんコラム №206 かって経験したことのない

今年2018年が終わろうとしている。平成で過ごす最後の年の瀬だ。この2018年とはいかなる年であっただろうか。
 国内に関しては、災害の多い年であった。大阪北部と北海道を襲った地震。夏に相次いでやってきた台風。それに7月の猛暑と豪雨。地震はともかく、台風と猛暑は「かって経験したことのない」という枕言葉がなんどもついた。まさしく災害大国日本である。そして地震、豪雨、猛暑、台風といった定番の災害の背後に、巨大な影のように潜む大きな不安、南海トラフ地震がある。かような大きな不安をかかえる日本で東京オリンピック、大阪万博と二つの国際的な大きなイベントが行われることになった。いいのだろうか。東京と大阪に投票した委員はそのことを知っているのだろうか。
 豪雨、猛暑、台風といった災害は年々過酷になる。2019年も「かって経験したことのない」災害が日本を襲うだろう。「経験したことのない」ことの経験は日本人は豊富である。この経験を生かしてしっかり対処しなくてはならない。
「かって経験したことのない」は日本の災害だけではない。今年も世界はアメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプに振り回された。こんなアメリカの大統領は「かって経験したことのない」大統領である。他国の大統領とはいえ、日本とアメリカの関係をかんがみれば、日本にとっては、アメリカの大統領は天候気象といった自然現象と同じである。人智の及ばない自然災害と同じで、猛威をふるう影響力をただただ耐えなければならない。トランプ以前のアメリカ大統領。直近のオバマも入れて、みな理想とロマンを持っていた。暗殺されたケネディが大統領として大きな人気を得たのは、その若さとともに、遥か地平線の彼方を見渡すような壮大なロマンを感じさせたからだろう。トランプに比べればあのブッシュ息子大統領でさえ知性と教養が見える。かような人物を大統領に選ばざるをえないのは、いかな大国アメリカといえども、それだけ余裕がなくなったということか。ことはアメリカだけではない。右傾化の傾向は世界的な傾向だ。特にヨーロッパは顕著でメルケルさん1人ががんばって、なんとかヨーロッパを支えているといっていいだろう。
 いずこも、我さえ良ければ、我社だけ良ければ、我国さえ良ければということだろう。「人類の英知で世界平和」などと夢みたいなことを本気でいう人はいないだろう。人類なんてものは、そもそも英知なんか持ってなくて、猿が両手を使えるだけなのかもしれない。困ったものだ。
 


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とつぜんコラム №205 会社をクビにならない

かって、この国はサラリーマンのユートピアであった。昭和の時代、かの植木等が、こう歌っていた。
「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ。二日酔でも寝ぼけていても、タイムレコーダ、ガチャンと押せばどうになかっこはつくもんさ。チョコラチョイト、パーにはならしねえ」
 そう、めったにクビにはならなかった。そして年功序列。入社して大過なくすごせば、給料は上がるし、それなりに出世もした。
 これらは過ぎし昭和の時代とともに、過去へと流れ去ったのである。今は、二日酔で出社するなんてもってのほか。タイムレコーダをガチャンと押した後も必死で働かなければパーになる。いとも簡単にクビになる。昔に入社して馬齢を重ねただけの年寄りは、リストラにあうか、良くて窓際に追いやられ閑職の飼い殺しである。
 賃金を得て生計を立てている全労働者にうちで、非正規労働者の占める割合は40パーセント。非正規でなくても、正規社員でさえもリストラされる。つまり、現代の労働者は使い捨ての消耗品である。
 才覚があって独立して会社を興せる人、文才、画才、商才、芸才があってプロとして稼げる人はいい。また、農業や漁業に転身できる人。そいう人は少ないであろう。都市生活者のほとんどは、いわゆる「会社」なるものに入社して、賃金を得る以外に生計の道はないであろう。
では、「会社」なるものに居るにはどうすればいいか。答えは極めてシンプルである。クビにならない。これにつきる。
 小生、いまの会社で13社目である。自分から辞めた会社もあるが、ほとんどはクビになったのである。
 最初は昆布食品の会社だった。それからコピーライター養成講座を修了してコピーライターになって5社を渡り歩いた。そしてK電気に入社。資材購買業務を27年やってリストラされた。その後、購買の専門家として5社を転々として、今の会社に入って10年目である。山ほどクビを経験してきたわけ。
 自分でいうのもなんだが、小生、自分ではクビになるほど無能とは思えない。コピーライターとしても購買係としても使いモノにはなっているだろう。それでもクビになったのである。では会社をクビにならないためにはどうすればいいのか。
 まじめにコツコツ仕事をしていたら、きっとお天道様が見ていらっしゃる。大きな間違いである。お天道様なんか、そんなモノは見ていない。それどころかまじめコツコツな人は真っ先にリストラされる。
 では、大変に有能でバリバリ仕事してる人。中途半端にバリバリだと危ない。リストラされる。ものすごく有能で圧倒的にデキル人。こういう人は出世するかもしれない。しかし、専務副社長どまりでトップにはなれない。トップは社長の息子がなるのである。そしてオヤジの代からの幹部はうっとうしいからクビ。いずれにしてもクビになるのである。
 どうしたらいいか。クビにしにくい/クビにできない社員になることだ。クビにしにくい=クビにしやすくない、ということである。だまってまじめにコツコツ。こんな人ほどクビにしやすい社員はいないだろう。バリバリ社員はたいてい口もバリバリである。自分が仕事ができるから、自信があるからズバズバモノをいう。こういう社員は会社がクビにしたい社員である。
 どうする。この会社でこれができるのが私だけという状況を作り出すことである。会社は組織で動いているから、この仕事はあんただけのモノではない。と、してあなたのスペアを作ろうとするだろう。極力、そういう事態にならないように常日頃のタネまき地まわしが肝要である。
 クビにできない。これがベストである。大藪春彦師匠の登場人物のように会社の幹部を恐喝して会社を食いモノにするというのもいいが、あれはある種おとぎ話である。あなたがいなければ会社がつぶれる。こういう状態になればしめたものだ。
 いずれにしても会社にとってあなたは消耗品なのだから、せいぜい消耗させないようにしたいものだ。がんばろう。ご同輩。

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とつぜんコラム №204 病気とのつきあいかた

 仏教でいう人間が持っている四つの苦悩。生老病死。生老死は平等だ。万人だれにでも訪れる。この三つからさけられる人はいない。ところが「病」これだけは不平等だ。病気ひとつしないで年を取る人もいるし、病気ばかりしている人もいる。病院にはまったく縁のない人もいるし入院ばかりしているひともいる。小生は、基本的には元気だが、入院経験は豊富だ。
 病気は思いもかけぬ人に、思いもかけぬ形でやってくる。このあいだ友人が入院した。1型糖尿病だそうだ。別件で血液検査を受けたら血糖値が異常に高いことが判った。その人はそれまで血液検査は優等生で、どこの異常はなかった。それが血糖値が異常。その人は先代桂春蝶みたいなやせがたでとても糖尿病には見えない。小生は、太りぎみでメタボ、健康診断のたびに糖尿病予備軍といわれ続けている。それでもなんとか糖尿病にならずにすんでいる。
 彼は、小食だ。小生のように大食いで気がゆるむと暴飲暴食にはしるのなら自業自得だが、小食でやせがたの彼がなぜ糖尿病に?
 糖尿病といっても2種類ある。もし小生がなるのなら2型糖尿病だが彼は1型糖尿病だ。2型はたぶんに不摂生のはての自業自得なところもあるが、1型は不幸不運な病気である。すい臓の機能が低下して血糖をコントロールするインシュリンの出が悪くなる。最悪、インシュリンがまったく出なくなる。となると血糖が血管内に大量にたまり合併症を引き起こす。すい臓が頼りにならないからインシュリンを注射しなければならない。1型糖尿病は治らないから一生注射が欠かせない。
阪神タイガースの岩田投手がこの1型糖尿病だ。先日、久しぶりに先発したが好投。例によって打線の援護なく残念ながらチームは負けた。1型糖尿病患者の励みとなるので岩田投手にはぜひがんばってほしい。
 糖尿病とひとくくりにいうが、1型と2型とは結果は同じだが、まったく違う病気といっていいのではないか。2型は生活習慣病で、1型は原因不明のすい臓の機能低下によっておこる病気だ。だから糖尿病患者となると不摂生な人との誤解を受けるが、1型は原因不明で治癒不可能な難病である。ほんとは糖尿病ではなく別の病名を考えて欲しいとその人はいっていた。
先日、見舞いに行った。入院して血糖値測定とインシュリン注射を自分で完全にできるように病院で教育訓練を受ける。教育入院だ。小生は2年前に一ヶ月もの入院を経験した。できれば入院なんてものはせぬほうがいい。もし入院したら、1日でも早く退院できるようにがんばることだ。
 病気。だれもなりたくない。しかし、多くの人がなんらかの病気になる可能性がある。もし、病気になれば一刻も早く治療を始めることだ。そして早く治すとの強い意志を持つことが肝要である。病は気からというが、気が原因の病もあるが、そうでない病がほとんどだろう。気で治せる病気もあるが、気で治せない病気もある。友人の1型糖尿病などは気で治せない。かような病気は、ある種「個性」として受け入れ、穏便につきあっていかなければならない。小生の2年前の入院は憩室からの大腸出血だった。憩室は病気ではない。体質である。だから小生はこれからずっと大腸に憩室をかかえて生きていくわけ。これからも出血するかもしれない。出血すれば憩室炎という病気だ。病気との付き合い方も人生の重要な課題である。  
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とつぜんコラム №203 選挙でより良い政治家を選べるかな

 日本がイラン原油の輸入停止を決めた。アメリカのイラン制裁の適用除外を求める交渉をしていたが、それが不調になったため。これによって日本国内でガソリンなどが値上がり、物価全般へも悪影響がでる心配がある。
 日本はイランにはなんの意趣遺恨もない。だからイランからもどんどん原油を輸入すればいいと思うが。そうではないらしい。なにせアメリカさまのご意向である。日本としてはアメリアの意向には逆らえない。
 この国、日本には「外交」というモノはない。なんでもアメリカのいう通りしておけばいいのだから。外務大臣の席には、ハンコを押す芸だけができる猿が座っていてもいい。外務官僚が書類を持ってくる。「大臣、アメリカがこんなことをいってますが」それに、「承認」のハンを押せば事足りる。で、大臣報酬をもらい、自分の群れの子分たちにモンキーバナナでも配り、配偶者のメス猿と猿酒でものんでいればいいのである。
 なぜ日本に有能な外務大臣が育たなかったのか。外交は票にならないからではないか。
 外国と丁々発止とタフな交渉をし、親方アメリカの意向も組みつつも、少しでも日本の利益になるように仕事をする人。
 オラの村にどぶ川が有る。あそこに橋があれば農協の事務所へ行くのが便利だなや。村の村一番の秀才といわれた郵便局長の息子が代議士の先生さまをやっていなさる。先生さまに頼んでみるべ。で、小さなどぶ川に小さな橋がかかった。
 タフな外務大臣もおらほの村の先生さまも同じ選挙区。で、この村の人はどっちに投票するだろうか。残念ながら先生さまに投票する人の方が多いのではないか。
 トランプとわたりあって日本製自動車の関税を5パーセント下げさせた外務大臣は落選して、どぶ川に板きれ1枚渡した先生さまが当選したりするのである。
 代議士とか議員とかいう人たちに良い印象を持っている人は多いだろうか。なにかのイベントにやって来て美辞麗句をならべた長々としたあいさつをし、なんぞあると、なれなれしく寄って来て握手を求めてきたりする。選挙区の有力者の息子の就職や入学の口利きをして、それらの票を見返りに求める。山奥の狐と狸ぐらいしかいない土地に、なんとか文化会館とかいう箱ものを造る情報を事前のキャッチ。親族にその土地を入手させて、計画が始動して土地は大値上がりして大もうけ。で、できれば、なんとか文化会館建設に尽力された、なんとか先生と自分の銅像ができないかな。ま、代議士議員先生って、こういうイメージを持っている人が多いのではないだろうか。
 もちろん、かような利益、名誉とかいったものは一切求めず、政治家として、より良い仕事をしてやろうと、仕事に励んでいる議員諸氏もいるだろう。かような政治家が多くいれば、日本も少しは良い国になっていくだろう。できれば、こういう人が多く当選してほしい。でも、どぶ板先生さまが、多く当選しているのが現実ではないか。こういうことを考えると、選挙という方法で為政者を選んでいいのだろうかと疑問に思う。なんせ、あのトランプを大統領に選んだのはアメリカ人たちが行った選挙の結果なのである。
 日本も自民党に国のかじ取りを任せたのも日本の選挙民だ。その自民党のトップに安倍さんが再選される可能性が高い。まだ、しばらく安倍晋三さんに日本を任せなければならない。最近、経年劣化が進んでいる安倍さんに任せていいものだろうか。選挙という方法以外で為政者を選ぶ方法はないものだろうか。
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とつぜんコラム №202 防災を考える

 暑い。連日の猛暑である。暑さに強い小生も、さすがに苦痛である。連日、熱中症で病院に搬送され、死者も出ている。こうなると、この猛暑は大きな災害というべきだろう。
 災害といえば、このところ災害続きだ。7月だけでも豪雨、逆走台風、そしてこの猛暑。いづれも、かって経験したことのない災害である。
 平成の時代ももうすぐ終わる。平成は災害の多い時代であった。大きな地震だけでも阪神大震災、東日本大震災と2回も経験した。大正には関東大震災があった。昭和の時代は、大震災という大きな地震はなかったが、大きな戦争、そして2度の原爆、巨大な不幸に見舞われた。こうして見ると、日本は実に災害の多い国だ。よくこんな災害の多い国に平然と暮らしているものだ。
 火事とケンカは江戸の華などという。江戸は火事の多い街であった。世界史的に見ても大きな火災に何度もあってきた。木と紙で出来た建物ばかりで、照明に裸火を使うのだから、火災がおきて当然といってもいい。
 だから、江戸では火災をおこさない。火災に強い建造物を考えるといったことはなされなかった。火事がおきることを前提とした街づくりが行われた。だから江戸はいくたびかの大きな火災から立ち直り復興した。
 このことは江戸の事例だけではなく、日本の国の防災ということを考えてもいいだろう。日本は、これだけ災害が多く、しかも毎年、経験にない、記録にない、といった大きな災害が起きる。「防災」という認識では対処できないのではないか。災害を防ぐ。災害が発生したらそれに耐える。ということでは大きな被害がでるだろう。矛盾という言葉がある。どんなモノでも貫く矛と、どんな矛でも防ぐ盾。それがこと、災害ということならば、災害を矛、防災が盾ならば、盾は必ず破られる。
 防災の盾は人間が考える。かって経験したことのない災害が発生すれば人間が造った盾は貫かれるだろう。
「防災」ではなく「受災」という考えではどうだろうか。災害は防ぐことはできない。被害を最小限に抑えることはできるが、災害を100パーセント防ぐことは人間の知恵では不可能といっていい。
 災害を防ぐのではなく、受けるのだ。受けて、そして流す。災害が来ることを前提として、人命を損なわず、通過するのを待つ。
 日本人は災害に慣れている。巨大な災害にあって家を失い財産を失くした人は「えらいことですわ。しゃーおまへん。ははは」と笑っている人がよくいる。日本人は強くたくましいことがよく判る。けっしてへこたれていない。絶対にあきらめていない。必ず立ち上がる。そういうことを前提として、目の前の瓦礫の荒野をまのあたりにして、いったん現状を受け入れ、そして復興する。
 日本人はあきらめないのだ。災害が襲ってくるのはしかたがないい。それをいかにして受け流すかかが大切ではないか。 
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とつぜんコラム №201 そんなに信用していいのかな

 このブログでなんどかいってるが、小生はオートマチックが大嫌いである。会社の車や借り物以外、車はマニュアル車しか運転したことがない。長い間、小生の愛車だったホンダ・インテグラは、もちろん5速マニュアル。窓は手でくるくる回してガラスを上げ下げしてた。ラジオのアンテナは手で伸ばしていた。
 ところが、昨今、車の進歩か退歩か知らぬが、かような小生の好みからどんどんかけ離れていく。車が前方の障害物を察知して、勝手にブレーキをかける。将来的には完全自動運転で、行き先を車に指示するだけで、あとは寝ていても安全に目的地に着くとか。
 小生は料理が趣味である。中華料理は食べるのも料理するのも好きである。その中華の炒飯をよくする。炒飯は強火で炒めるのがコツだ。鍋の温度が下がらないように気をつけなければならない。だから鍋返しであおったりしてはダメ。えいやっ、と鍋返しをすれば確かにかっこいいが、あんなことをすれば鍋の温度が下がってよろしくない。鍋は極力火に接触させておかなければダメだ。ところが家庭用のガスレンジは勝手に火力を落とす。センサーが鍋底の温度を察知してガスの炎を小さくする。こんなことではうまい炒飯はできない。だから小生は、炒飯専用にひと口のガスコンロを持っている。
 オーブン料理をする時、自動で加熱すれば失敗しなくていいが、小生が思う加熱具合にならないことがある。だから、オーブンも自分で温度と加熱時間を設定して使っている。
 土曜の夜は映画のDVDを観るのが楽しみだ。ところがいきつけのレンタルビデオ屋が閉店になった。このままではDVDのお皿で映画を観るのではなく、ネット配信で観なくてはいけないだろう。と、なると支払いはクレジットでの決済ということになる。ネットでの買物ではクレジットカードを使うのはいやだ。万が一情報が悪用されれば、小生の少ない財産は大きな被害をこうむる。
 パソコンも、クラウドとやらで、個々のパソコンにはアプリもデータも入れないで、雲の上にあるなんやよう判らんものの中に置いて、そこで一括管理、個々のパソコンは単なる端末にすぎなくなるとか。
 こんなに機械を信用していいのだろうか。自動運転の車は絶対に事故を起こさないのか。もし雲の上で異変が起きて、そこがパーになったら地上の世界はどうなる。
 てなことを書くと、お前は進歩から取り残されている縄文人だ。東海道を数時間で駆け抜ける電車があるのに、早籠で上方から江戸まで行こうというのか。確かに新幹線の方が早籠よりも速くて楽だ。しかし早籠が事故を起こしても、せいぜい駕籠かきが足をくじき客が籠からころこんで落ちて頭にたんこぶをこしらえるぐらい。
 ゴトゴトを水車で粉を挽いていたのが、電動のモーターで粉を挽くようになった。その電気は原子力で作っている。その電気作っている所が事故を起こせば、取り返しのつかないことになるのはご承知に通り。
 科学技術の進歩、文明の発達は、確かに人類に計り知れない利益と恩恵をもたらした。縄文人もどきの小生でも、こうしてパソコンで原稿を書いている。小生は若いころコピーライターをしていた。そのころはワープロとかパソコンなんてもんはなかった。原稿用紙に2Bの鉛筆でコピーの原稿を書いていた。書き損じたら消しゴムでごしごしこすって修正していた。それが、今はBack Spaceキーを押すだけ。実に簡単である。ところが、さんざん苦労して書いた原稿がちよっとした手違いで全部パーになるおそれがある。手書きの原稿なら、居眠りしててコーヒーをこぼしたって原稿全部がパーになることはない。
 科学技術とか文明の利器は確かに便利ではあるが、完全に信用しないことだ。人間はミスをする。機械は故障する。完璧な機械、施設、システムなんてものはない。しょせんは人間が創ったモノだ。
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とつぜんコラム №200 金を出してるのはわれわれだ

 小生は、若いころコピーライターをやった経験がある。コピーライターは文章を書く仕事。小説家も同じく、文章を書く仕事だ。ところがこの両者似て非なるもの。
コピーライターが書く文章には、必ずクライアントがいる。そこにコピーライターのテーマ、思想、心情を込めることはご法度。クライアントの意向をいかにくみ取って、作品にそれを反映させるかがコピーライターの重要な能力である。小説家も編集者の意向を無視できないが、自分の考えを作品にこめることができる。
コピーライター、というより、デザイナー、イラストレーター、フォトグラファー、アートディレクターなどなど、およそ広告制作にかかわるクリエイターはクライアントに頭が上がらない。クライアントの意向は絶対である。クライアントが、こうしろといえば、必ずそうしなければならない。なぜか。クライアントは金を出しているからである。クリエイターはクライアントが出す金で、おまんまを食い、酒を飲み、女房子供を養うのである。かような関係においてクライアントがへいこらしてクリエイターが、でかい面してえらそばるなんてことは絶対にない。
ところがこの原則がまったく通じない世の中がある。え、どこって。みなさんのようく知ってる世界である。そこでは、金をもらって事をなしている連中が好き放題やりたい放題、それでいて妙にエラそうにしているのである。お金をもらう方が好き勝手。お金を出すほうが、それでもさして怒りを覚えるでもなく平然としている。
この国はわれわれ納税者が出す金で動いている。官僚、為政者といった連中は、われわれの出した金でメシを食い、子供を東大に進学させ、ゴルフをして、生きているのだ。われわれがクライアントで連中がクリエイターなのである。
 森友問題などは、じつにけしからん話で、国民の財産たる国有地をタダ同然の値段で、おかしげな学校法人に払い下げ、その経緯をウソをウソで塗り固めてごまかそうとする。こやつらは何を/誰を守ろうとしているのか。国民の下僕たる官僚どもは、納税者たるわれわれクライアントの意向を汲み、その意志を為政に反映させるべきではないのか。
 為政者のトップに君臨するご仁の意向に沿うような行政をおこなったのであろう。ま、ようするに今の首相安倍さんの方を向いて、それこそ流行りの言葉でいえば忖度していたわけだ。
 その安倍さんだが、いわゆるモリカケ問題でおおきくミソをつけた。そらそうだろう、お友だちにだけえこひいきする首相はとても合格とはいえないだろう。お隣の韓国では前大統領が、同じようにお友だちをえこひいきして、たいへんな国民の怒りをかい、大統領をクビになり有罪判決まで受けた。このことを思うと、日本の納税者はなんと寛容なことかと思う。
 安倍さんは外交でポイントを稼ごうと思っていろんな国を訪問、あちこちで首脳会談を繰り広げているが、これも、ま、金をたんにバラまいているだけだろう。その金はわれわれ納税者の金なんだけど。で、アジアの頭痛のタネ。北朝鮮の問題は、安倍さんは圧力一辺倒。肝心の拉致問題はトランプさんや文さんにお願いして金さんに伝えてもらうしか手はない。そのトランプさんとて、米朝会談だか米団治会談だかざこば会談だかで、はたして安倍さんのお願いを聞いて、金さんにちゃんと伝えてくれるかどうか判らぬ。ひょっとすると日本だけおいてきぼりをくらうだろう。で、大あわててで交渉して、金さんが乗ってくれて、吉弥会談、いやいやせいぜい八光会談ができたとしても、金だけむしりとられて、あとはなんも変わらん、ということになるかも知れない。
 かような連中はしかっり見張っておく必要があるだろう。なんせ金を出しているのはわれわれなんだから。
 
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とつぜんコラム №199 スマホを捨てて本を手にとろう

 アメリカの奴隷制度をあつかった小説「地下鉄道」に、こういう記述がある。
「銃を持った黒人より、本を読む黒人のほうが危険だ」暴力を振るう奴隷よりも、知識、教養を身につけた奴隷のほうが支配者たる白人にとって厄介である、ということだ。
 支配者、権力者にとって良い国民とは、何も考えず、疑問をいだかず、為政者のいうことは、気候や天候のように人間が異を唱えることができないモノと思う国民ではないか。
 21世紀の現代、世界のほとんどの国は、いわゆる民主主義という主義でもって権力者を選択している。
国民が為政者権力者を、複数の候補者の中から、ベストと思う人物を国のトップに選ぶのである。
このやり方は、果たして最良の方法であろうか。例えば、今のアメリカの大統領ドナルド・トランプ氏が、世界で最も存在感があり影響力が強い国のトップにふさわしいであろうか。他国のことだから、とやかくいうべきではないかも知れないが、かのご仁はとても大統領には適当ではないと思う。しかし、トランプ大統領はアメリカの国民が選んだ大統領である。かの大統領の誕生は、民主主義の大きな欠点をさらけ出したといえる。アメリカ人の多くが「本を読む」人であったなら、果たしてドナルド・トランプ氏は大統領になっていたであろうか。
小生は電車の中では本を読んでいる。今朝の電車、今朝に限らないが、電車の中で本を読んでいる人は少ない。ひどいときは、乗っている車両で本読みは小生1人ということも多々ある。では他の人たちは何をしているのか。多くの人はスマホをいじっている。スマホで何をしているのか判らぬが、ま、多くはゲームをしているのだろう。電車の中だけではない、病院の待合、散髪屋の待合、人と待ち合わせている時、などなど。今の日本で、ちょっとしたすき間の時間、あき時間、何をして時間をつぶすか。スマホでゲームやってることが多いだろう。
読書離れが叫ばれて久しい。「本を読む」人が絶滅危惧種となっている。かわりにスマホでゲームが増えているわけだ。それは、あたかも貴重な琵琶湖のフナやモロコが、ブラックバスなどの外来種の増殖によって駆逐されているのに似ている。
日本でも「本を読む」人が少なくなってどうなったか。モリカケ問題。財務省のセクハラ、自衛隊の日報のごまかし。安倍1強の弊害が噴出しているのに、国民はさして怒っているようには見えない。内閣の支持率が下がっていることで、かろうじて国民の意志がわかる。ちょっとでもいいから、スマホから手を離そう。そして本を読もう。  
 
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