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1月9日(水) 十日戎へ行く

 
 十日戎へ行く。今日は1月9日だから宵戎。小生は西宮生まれだから十日戎は母の胎内にいる時から欠かしたことがない。毎年、必ずお参りにくる。
 3歳から神戸の住民になり、神戸育ちで今も神戸市民だが、生まれ故郷は西宮。えべっさんに来ると、やっぱりワシの故郷は西宮かなと思う。えべっさんの風情だけは昔から変わらない。地元西宮の球団阪神タイガース(タイガースは大阪の球団ではない)も優勝祈願に来る。今年こそ願いを聞いたってや、えべっさん。頼んまっせ。
 小生の母も西宮生まれで西宮育ち。母の少女時代はえべっさんは遊び場だった。で、母に聞いた話。
 母が子供のころ、と、いうから当然戦前の話。十日戎に遊びに行った。境内には見世物小屋が出ていた。そこに「首だけ女」という出し物があった。ちょうど江戸時代のさらし首のように木の台の上に女の首が置いてあった。この首、生きていて眼を開けて、きょろきょろ周りを見ていたそうだ。首だけで生きている女というわけ。
 子供の母は興味深く「首だけ女」を見ていた。普通の人はそんな物をいつまでも見ていたら飽きる。ところが母は好奇心の強い子供だったので、ずっと観察していた。そのうちとうとう客は母一人だけになった。「首だけ女」と母はしばらくにらめっこしていた。
昼になった。「首だけ女」は台の下から首を引き抜くと、トコトコと奥に行って弁当を食い、食い終わると台の下から首を入れて「首だけ女」の芸を続けた。
えべっさんの拝殿の横に馬の彫刻がある。あの馬、えべっさんの使いの馬。昔、この時期になると、深夜にあの馬が西宮の街を走ったそうだ。だから、西宮の人たちは、馬が目を傷つけないようにと、門松を逆さまにして門に付けていた。ある男が彫刻の馬が走るはずがないと、門松を真っ直ぐ付けて、深夜、戸の隙間から覗いていた。馬が走ってきて、男の家の前を走った瞬間、男の目に激痛が走った。男は盲目になった。
西宮神社の正門は東側の門。赤い塗装がなされているから赤門という。十日戎というと、昔は必ずこの赤門の前でハラケン(原健三郎)のおっさんが演説をしていた。典型的な自民党政治家で衆議院議長までやった、なかなか食えんおっさんやった。明石海峡大橋はワシが作ったなんて自慢してたな。十日戎にハラケンのおっさんがおらへんと、少々さみしいことは否定できない。  
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生物と無生物のあいだ


福岡伸一 講談社

 中学の同窓会。久しぶりに旧友と会う。「やあ久しぶり」「卒業以来やな。変わらんな」「ほんまやな。お互い変わらんな」と、いうようなあいさつを交わすだろう。ところが、これ、大間違い。目の前の中学の同級生は、中学時代とはまったく違う生物なのだ。
「生命とは何か」これがこの本のテーマ。「生命」というモノが存在するのか。それは何か?
 人間の身体を構成している細胞は日々新陳代謝を繰り返している。細胞というよりも細胞を構成している、もっと小さな要素、分子、原子のレベルでも入れ替わっている。だから、人間の身体も時間が経てばハードは完全に変わる。従って、目の前の旧友は中学生のころとは全然違う物質で作られている。だからといって、あのころ仲の良かったタローくんと、目の前のおじさんタローくんは別人かというとそうではない。タローくんを形作っているモノが全然別のものになってもタローくんはタローくんである。では、タローくんをタローくんたらしめているモノは何か。これを取り去ればタローくんでなくなるモノは何か?
 著者はテーマについてある程度の結論を出している。「生命とは淀みである」
鴨長明の方丈記に「行く川の水は絶えずして、しかも元の水に非ず」という言葉がある。水はどんどん上流から流れてくる。流れが緩くなったところに木の葉が浮いている。木の葉は必ず同じ所に留まる。上流から流れてくる木の葉も同じ種類の葉っぱばかり。淀みで漂っている木の葉の種類も浮いている葉っぱの並びも全く同じ。昨日川で見た木の葉も今日見た木の葉は全く同じに見える。しかし葉っぱそのものは別の葉に変わっている。「生命」とは水や木の葉ではなく、それらが形作っている「状況」といえるのではないだろうか。
 こういう「生命」に関する解説もわかりやすく興味深いが、「生命」特に遺伝子DNAの本質に迫ろうとする科学者たちのドラマが大変に面白かった。DNAの二重らせん構造を解明してノーベル賞を受賞したワトソンとクリックの二人の科学者が有名だが、この二人は踏み台の上に乗っかったから高い所に手が届いた。この踏み台を作った人たちがいることを忘れてはいけない。そういう感想を持った。面白い科学エッセイだった。
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