しなの鉄道で、篠ノ井から上田駅に着く直前に、2つの隅櫓が見えます
左が上田城西櫓で、右が南櫓です
西櫓は、江戸の創建時代のもので、国の重要文化財に指定されています
黒板塀で覆われた上田城は、大きな城ではありませんでしたが、
真田昌幸、幸村父子が、天正13(1585)年と慶長5(1600)年の
二度にわたる戦いで、徳川氏の軍勢を撃退したことで知られています


上田城は、真田昌幸が天正11(1583)年に築城を始めました
南櫓は岩盤のうえに築かれているので、石垣がつくられていないところがあります


関ヶ原の戦いでは真田昌幸と幸村は豊臣方、長男信之は徳川方で戦います
真田の家を存続させるための戦略でした
徳川方の勝利によって、昌幸と幸村は高野山に流されましたが、
長男信之は、松代藩に移り、真田家は、その後明治維新まで250年続いて行きます
しかし、上田城は、過去二回徳川方を撃退していたことも影響したのか、
徹底的に破壊されたということです
真田信之が、松代に持って行こうとした「大きな石」は、根が生えたようにまったく動かず
そのまま上田城に残されたといわれています
それが、大手門の右にある真田石です
現在の上田城は、真田氏の後、この地に来た仙石忠政が
2年の歳月をかけて、寛永5(1628)年に完成したものといわれています
その後、松平氏が藩主となり、明治維新を迎えることになります

藩主の屋敷は、長野県立上田高等学校の敷地にありました
藩主の屋敷の表門は、上田高校の正門として今も現役です
そして、屋敷の周囲にあった堀と白漆喰の土塀も、校舎の周囲に残されています


こんな高等学校で学びたいと思うほど、すばらしい姿でした
また、文化10(1813)年につくられた、藩校の上田文武学校明倫館は、
二の丸門の前にある上田第二中学校の敷地にありました
案内板によれば、
明治の学制発布後から、松平学校、上田学校本校、上田尋常小学校、
上田尋常小学校男子校、上田尋常高等小学校南校部、上田市立南小学校などを経て
現在の上田市立第二中学校になっていったようです


上田公園の中に、上田神社が鎮座していて、
境内には、真田氏の旗印、六文銭の甲が飾ってありました
大阪冬の陣と夏の陣のとき、真田昌幸と幸村は高野山から呼び出され
再び徳川軍と戦うことになりました
そのとき、徳川方を悩ませたのが、真田十勇士の活躍でした
大手門の前には、観光客の記念撮影のために真田十勇士がつくられています
15分ほど見ていましたが、真田幸村の姿で撮影する子が一番多かったです
上田第二中学校から市役所に向かうメインストリートには、
真田昌幸と幸村に任えたといわれる10人の侍、
真田十勇士についての説明がつくられています


真田十勇士は、1911年、講談を読み物にした立川文庫で始めて使われたそうです
全員が架空の人物といわれますが、モデルになった武士がいるともいわれています


真田十勇士は、
猿飛佐助 霧隠才蔵 禰津(根津)甚八 望月太郎 筧十蔵
三好晴海(入道) 三好伊三(入道) 海野六郎 穴山小助 由利鎌之助
で、三好晴海と伊三は兄弟です
猿飛佐助と霧隠才蔵は忍者、
私たちは、少年時代、体の前に両手で印を結び
ドロンといって姿を消す、二人のまねをして遊んでいました
由利鎌之助は鎖鎌、筧十郎は火縄銃の名手、
禰津(根津)甚八のモデルといわれる人は
水軍の指揮に長けていたといわれています
また、望月六郎は爆弾製造に長けていました
もう一人、上田の人々から尊敬され慕われている人がいます
丸山平八郎氏です
明治7年、政府が全国の城の払い下げを布告し
上田城も西櫓以外は払い下げられたとき
将来を憂いて、本丸付近を一括して買い取って
誰でも入れる公園にすることができました、
上田城を守った功労者です
上田城を築いた人たち、全国に知られる活躍をした家臣団、
そして破壊から守った人、今も城を維持している人々
様々な人の工夫と努力で、上田城は、今日もたくさんの観光客を楽しませています
左が上田城西櫓で、右が南櫓です
西櫓は、江戸の創建時代のもので、国の重要文化財に指定されています
黒板塀で覆われた上田城は、大きな城ではありませんでしたが、
真田昌幸、幸村父子が、天正13(1585)年と慶長5(1600)年の
二度にわたる戦いで、徳川氏の軍勢を撃退したことで知られています


上田城は、真田昌幸が天正11(1583)年に築城を始めました
南櫓は岩盤のうえに築かれているので、石垣がつくられていないところがあります


関ヶ原の戦いでは真田昌幸と幸村は豊臣方、長男信之は徳川方で戦います
真田の家を存続させるための戦略でした
徳川方の勝利によって、昌幸と幸村は高野山に流されましたが、
長男信之は、松代藩に移り、真田家は、その後明治維新まで250年続いて行きます
しかし、上田城は、過去二回徳川方を撃退していたことも影響したのか、
徹底的に破壊されたということです
真田信之が、松代に持って行こうとした「大きな石」は、根が生えたようにまったく動かず
そのまま上田城に残されたといわれています
それが、大手門の右にある真田石です
現在の上田城は、真田氏の後、この地に来た仙石忠政が
2年の歳月をかけて、寛永5(1628)年に完成したものといわれています
その後、松平氏が藩主となり、明治維新を迎えることになります

藩主の屋敷は、長野県立上田高等学校の敷地にありました
藩主の屋敷の表門は、上田高校の正門として今も現役です
そして、屋敷の周囲にあった堀と白漆喰の土塀も、校舎の周囲に残されています


こんな高等学校で学びたいと思うほど、すばらしい姿でした
また、文化10(1813)年につくられた、藩校の上田文武学校明倫館は、
二の丸門の前にある上田第二中学校の敷地にありました
案内板によれば、
明治の学制発布後から、松平学校、上田学校本校、上田尋常小学校、
上田尋常小学校男子校、上田尋常高等小学校南校部、上田市立南小学校などを経て
現在の上田市立第二中学校になっていったようです


上田公園の中に、上田神社が鎮座していて、
境内には、真田氏の旗印、六文銭の甲が飾ってありました
大阪冬の陣と夏の陣のとき、真田昌幸と幸村は高野山から呼び出され
再び徳川軍と戦うことになりました
そのとき、徳川方を悩ませたのが、真田十勇士の活躍でした
大手門の前には、観光客の記念撮影のために真田十勇士がつくられています
15分ほど見ていましたが、真田幸村の姿で撮影する子が一番多かったです
上田第二中学校から市役所に向かうメインストリートには、
真田昌幸と幸村に任えたといわれる10人の侍、
真田十勇士についての説明がつくられています


真田十勇士は、1911年、講談を読み物にした立川文庫で始めて使われたそうです
全員が架空の人物といわれますが、モデルになった武士がいるともいわれています


真田十勇士は、
猿飛佐助 霧隠才蔵 禰津(根津)甚八 望月太郎 筧十蔵
三好晴海(入道) 三好伊三(入道) 海野六郎 穴山小助 由利鎌之助
で、三好晴海と伊三は兄弟です
猿飛佐助と霧隠才蔵は忍者、
私たちは、少年時代、体の前に両手で印を結び
ドロンといって姿を消す、二人のまねをして遊んでいました
由利鎌之助は鎖鎌、筧十郎は火縄銃の名手、
禰津(根津)甚八のモデルといわれる人は
水軍の指揮に長けていたといわれています
また、望月六郎は爆弾製造に長けていました
もう一人、上田の人々から尊敬され慕われている人がいます
丸山平八郎氏です
明治7年、政府が全国の城の払い下げを布告し
上田城も西櫓以外は払い下げられたとき
将来を憂いて、本丸付近を一括して買い取って
誰でも入れる公園にすることができました、
上田城を守った功労者です
上田城を築いた人たち、全国に知られる活躍をした家臣団、
そして破壊から守った人、今も城を維持している人々
様々な人の工夫と努力で、上田城は、今日もたくさんの観光客を楽しませています
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