青春18きっぷを使って、若狭街道の熊川宿を訪ねました。暑い暑い夏の日でした。私の近くにいる人も、「行ってよかったよ」と言っていて、私も行かなければと、ずっと考えていました。青春十八きっぷが使えるときをねらって出発しました。
京都で新快速を乗り継いで、湖西線近江今津駅に着きました。ここまで、約280㎞、新快速でしたので、意外に早く来たなあという印象でした。
近江今津駅前から、JR江若線の路線バス(小浜行き)に乗りました。ドライバーさんから、熊川宿の東の入り口に近い橘バス停で下車するよう教えていただきました。とても感じのいいドライバーさんで、バスの時刻表もくださいました。バス停は、幼い頃、村でよく見た、お地蔵さんのお堂を連想するような建物でした。
距離の割に早く着いたと書きましたが、朝6時に家を出てからすでに6時間が過ぎていました。もっとも、途中で1時間乗り継ぎに使いましたが・・・。すぐ、道の駅へ向かい、四季彩館で昼食を食べました。
若狭の国は、古代から、朝廷に食料を献上していた御食国(みけつくに)で、魚や貝などの海産物が京都に運ばれていたところです。江戸時代の、18世紀の後半から、能登半島に水揚げされていた鯖が、若狭の国に陸揚げされるようになりました。若狭で塩を振られた鯖は、昼には熊川宿に着きます。さらに、県境の大杉村と水坂峠を越えて、朽木(くちき)、花折(はなおれ)、大原、八瀬を経て、出町柳と一昼夜をかけて京に運ばれ、錦などの市場に並べられました。京に着く頃にはちょうどいい味になっていたといわれています。そのため、若狭街道は、いつの頃からか「鯖街道」と呼ばれるようになりました。
「京は遠ても18里」。運んだ人たちは、40~60kgの荷を背負い、18里の道を駆けていました。熊川では、「負い縄1本あれば生活できる」といわれたそうです。
熊川宿は、豊臣秀吉の家臣で、小浜藩主であった浅野長政が、天正17(1589)年に、諸役を免除したことに始まります。ここが、若狭と近江の国境に近い、交通と軍事の要衝であったためでした。戸数40戸の寒村は、最盛期には200戸を数えたといわれるぐらい、繁栄をきわ
めたといわれています。宿の東入り口に番所が復元されています。「入り鉄砲と出女」の統制と、出入り物資の課税を行っていました。
現在の熊川宿には、電柱も電線も見えません。道路も土の色に似せて舗装されていて、かつての街道の様子をしのぶことができます。街道の両側には、瓦葺きの平入りと妻入りの建物の中に、かつて茅葺きだった屋根をトタンで覆った民家がまざって並び、家並みの前を流れる前川が清らかな水音を立てています。なお、前川は、2008年に平成の名水百選に選ばれています。べんがらで塗った民家の前につくられた「かわと」は、人々の生活と川との結びつきを教えてくれます。
また、街道沿いには、夕涼みや休憩に使う折りたたみ式の縁台である、「がったり」も、残されています。写真は、たばこ屋さんの「がったり」で、座ぶとんとたばこ盆が置いてあり、文字通り一服できます。
茅葺きの屋根が続いていた江戸時代には村全体を焼き尽くしたものも含め、17~18世紀に15回の大火があったといわれています。古くから、道に白い石が現れたら火災が起こるといわれ、権現神社に白い石を火の神、水の神として祀って、火災から町を守っていました。前川も、生活用水や下流の村のかんがい用水のほか、防火用水としても使われていました。今も、町並みを描く人たちのそばを流れ続けています。
中条橋から西は、中ノ町(なかんちょう)となります。道幅も広く、かつての街道で人馬を調達した問屋が、大きな平入りの構えを見せています。町奉行所や本陣、蔵奉行所もつくられていました。
見ていて一番古い民家に見えたのは、上の写真の衣料品店でした。下の写真の倉見屋は、もっとも古い形式の民家だといわれています。本屋と土蔵をつなぐ付属屋が横に三棟並び、荷物の運送にあたった問屋の形式を残しているといわれます。
中ノ町と下ノ町(しもんちょう)のさかいにある駐在所も、町並みに解けあっていました。
パトカーがなければ、駐在所と気がつかないと思います。このあたりから雨が降り出しました。両側から山が迫ってくる谷筋にあるため、通り雨がきたのでしょう。かんかん照りの続く毎日からは、想像もできないことでした。
倉見屋さんの向かいに郵便局がありますが、そこに切手のPRがされていました。さっそく中に入って、1シートを求めました。PRには、「残り4シート」とありましたが、実際には、私が買ったのが、最後の1シートだったようです。
東の道の駅から西の駐車場まで、約1300メートルの間、かつての宿場の雰囲気を残して保存、復元されています。若狭の鯖を京に運ぶルートであった若狭街道の宿場町として、また、小浜藩の番所のある町として、繁栄した、かつての姿を、今に伝えてくれています。
平日の旅でしたが、道の駅にもそこそこ人が入っており、駐車場にもかなりの車が停まっていました。町並み保存の動きが、町の活性化に貢献しているとも感じました。「鯖街道」という名前に、ロマンを感じて訪ねてみましたが、江戸時代に返ったような雰囲気のなかを、前川が水音を立てて流れている、期待通りのすてきな町でした。
京都で新快速を乗り継いで、湖西線近江今津駅に着きました。ここまで、約280㎞、新快速でしたので、意外に早く来たなあという印象でした。
近江今津駅前から、JR江若線の路線バス(小浜行き)に乗りました。ドライバーさんから、熊川宿の東の入り口に近い橘バス停で下車するよう教えていただきました。とても感じのいいドライバーさんで、バスの時刻表もくださいました。バス停は、幼い頃、村でよく見た、お地蔵さんのお堂を連想するような建物でした。
距離の割に早く着いたと書きましたが、朝6時に家を出てからすでに6時間が過ぎていました。もっとも、途中で1時間乗り継ぎに使いましたが・・・。すぐ、道の駅へ向かい、四季彩館で昼食を食べました。
若狭の国は、古代から、朝廷に食料を献上していた御食国(みけつくに)で、魚や貝などの海産物が京都に運ばれていたところです。江戸時代の、18世紀の後半から、能登半島に水揚げされていた鯖が、若狭の国に陸揚げされるようになりました。若狭で塩を振られた鯖は、昼には熊川宿に着きます。さらに、県境の大杉村と水坂峠を越えて、朽木(くちき)、花折(はなおれ)、大原、八瀬を経て、出町柳と一昼夜をかけて京に運ばれ、錦などの市場に並べられました。京に着く頃にはちょうどいい味になっていたといわれています。そのため、若狭街道は、いつの頃からか「鯖街道」と呼ばれるようになりました。
「京は遠ても18里」。運んだ人たちは、40~60kgの荷を背負い、18里の道を駆けていました。熊川では、「負い縄1本あれば生活できる」といわれたそうです。
熊川宿は、豊臣秀吉の家臣で、小浜藩主であった浅野長政が、天正17(1589)年に、諸役を免除したことに始まります。ここが、若狭と近江の国境に近い、交通と軍事の要衝であったためでした。戸数40戸の寒村は、最盛期には200戸を数えたといわれるぐらい、繁栄をきわ
めたといわれています。宿の東入り口に番所が復元されています。「入り鉄砲と出女」の統制と、出入り物資の課税を行っていました。
現在の熊川宿には、電柱も電線も見えません。道路も土の色に似せて舗装されていて、かつての街道の様子をしのぶことができます。街道の両側には、瓦葺きの平入りと妻入りの建物の中に、かつて茅葺きだった屋根をトタンで覆った民家がまざって並び、家並みの前を流れる前川が清らかな水音を立てています。なお、前川は、2008年に平成の名水百選に選ばれています。べんがらで塗った民家の前につくられた「かわと」は、人々の生活と川との結びつきを教えてくれます。
また、街道沿いには、夕涼みや休憩に使う折りたたみ式の縁台である、「がったり」も、残されています。写真は、たばこ屋さんの「がったり」で、座ぶとんとたばこ盆が置いてあり、文字通り一服できます。
茅葺きの屋根が続いていた江戸時代には村全体を焼き尽くしたものも含め、17~18世紀に15回の大火があったといわれています。古くから、道に白い石が現れたら火災が起こるといわれ、権現神社に白い石を火の神、水の神として祀って、火災から町を守っていました。前川も、生活用水や下流の村のかんがい用水のほか、防火用水としても使われていました。今も、町並みを描く人たちのそばを流れ続けています。
中条橋から西は、中ノ町(なかんちょう)となります。道幅も広く、かつての街道で人馬を調達した問屋が、大きな平入りの構えを見せています。町奉行所や本陣、蔵奉行所もつくられていました。
見ていて一番古い民家に見えたのは、上の写真の衣料品店でした。下の写真の倉見屋は、もっとも古い形式の民家だといわれています。本屋と土蔵をつなぐ付属屋が横に三棟並び、荷物の運送にあたった問屋の形式を残しているといわれます。
中ノ町と下ノ町(しもんちょう)のさかいにある駐在所も、町並みに解けあっていました。
パトカーがなければ、駐在所と気がつかないと思います。このあたりから雨が降り出しました。両側から山が迫ってくる谷筋にあるため、通り雨がきたのでしょう。かんかん照りの続く毎日からは、想像もできないことでした。
倉見屋さんの向かいに郵便局がありますが、そこに切手のPRがされていました。さっそく中に入って、1シートを求めました。PRには、「残り4シート」とありましたが、実際には、私が買ったのが、最後の1シートだったようです。
東の道の駅から西の駐車場まで、約1300メートルの間、かつての宿場の雰囲気を残して保存、復元されています。若狭の鯖を京に運ぶルートであった若狭街道の宿場町として、また、小浜藩の番所のある町として、繁栄した、かつての姿を、今に伝えてくれています。
平日の旅でしたが、道の駅にもそこそこ人が入っており、駐車場にもかなりの車が停まっていました。町並み保存の動きが、町の活性化に貢献しているとも感じました。「鯖街道」という名前に、ロマンを感じて訪ねてみましたが、江戸時代に返ったような雰囲気のなかを、前川が水音を立てて流れている、期待通りのすてきな町でした。