トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

旧北国街道の宿場町  海野宿

2010年09月05日 | 日記
旧北国街道の宿場町の中で、往事の姿を、最もよくとどめているのが東御市の海野宿です


国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受け、日本の道100選にも選ばれているところです。私は、しなの鉄道で、小諸から田中駅に着きました。

写真の「海野宿」と書かれた案内板は、ここ、田中駅の構内につくられていました。また、駅前には、「田中宿」を示す灯籠が設置されていました。


実は、かつては田中宿に本陣が置かれていたのです。もともと、海野宿は、小諸宿と田中宿の間の宿(あいのしゅく)で、伝馬機能が中心でした。本陣が置かれないなど宿泊機能は、強くはありませんでした。

ところが、寛保2(1742)年、近くを流れる千曲川が氾濫し、田中宿が壊滅したため、本陣が海野宿に移されました。その結果、海野宿は、北国街道の本宿として、享和3(1803)年の記録では、「伝馬屋敷59軒、旅籠23軒」と書かれているように繁栄をきわめることになったのです。

しなの鉄道、田中駅でレンタサイクルを使って(レンタル料 500円)近代的な道を海野宿へ向かいました。田中駅の案内板には「海野宿まで18分」と書かれていましたが、10分ぐらいで、すぐに着きました。

ちょうど、駐車場から、観光バスの一団が降りてきて、いっしょに宿場の中に入りました。びっくり!しました。入り口に近い店の人が飛び出してきて、客引きというか、売り込みを始めたのです。

江戸時代の繁栄ぶりを伝えているのが、「本うだつ」です。火災対策としてつくられました。また、二本づつ長短を組み合わせてつくられた格子も「海野格子」とよばれ、建物の特色となっています。
 

明治になって、田中に鉄道の駅がつくられると、繁栄は再び田中に移っていきました。海野宿は、宿場町から新たな産業である養蚕に重点が移っていきます。
 
養蚕のためには部屋を暖める必要がありました。部屋で火をたいたため、空気抜きのために「小屋根」をつけました。下からひもで引いて、開閉ができるようになっていたそうです。

海野宿資料館の庭には、その建物につけられていた小屋根が、展示されています。近くでみると、結構大きいものでした。

そして、明治になって、養蚕で栄えた頃につくられたのが「袖うだつ」でした。白漆喰で塗られた、どっしりとしたうだつが意匠をこらして、つくられました
 

現在、海野宿では、一戸ごとに屋号が表示され、旧街道の中央に用水路が流れています。それにそって柳並木が連なる美しい町並みが、6町(約650メートル)にわたって続き、訪ねる人を迎えてくれています。

ほんとにすばらしい、町づくりがなされていました。しかし、町に入った時の客引きには、少し違和感がありました。