トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

もぐさ売る お店が残る 宿場町 旧中山道柏原宿

2014年07月15日 | 日記

幼い頃、いたずらをしたときには「灸(やいと)をすえるぞ!」といって、よく叱られました。今でも「お灸をすえる」ということばが残っています。灸は艾(もぐさ)を体のツボに置き上からそれを燃やすことで疲れを癒す治療法です。歩く旅が中心だった江戸時代、旅人にとって艾は必需品でした。その艾を商うお店が、今も旧中山道の柏原宿に残っています。「伊吹堂 亀屋左京」です。寛文元年(1661)創業で、350年を超えて商いを続ける老舗です。江戸時代、柏原宿には9軒の艾屋があったそうですが、今も商いを続けているただ一つのお店です。

旧柏原宿は、現在の米原市柏原にあります。JR東海道線を米原駅で乗り換えて13分、雨が今にも落ちてきそうな天候のなかを、JR柏原駅に着きました。

駅前にあった観光案内です。中央が旧中山道です。図の左方向が東の江戸側、右側が西の京側です。旧中山道は、武蔵、上野から信濃に入り、木曽11宿、美濃16宿を経て近江国に入ります。柏原宿は近江国の最初の宿場で、江戸から60番目の宿場でした。

柏原駅から旧中山道にいたる通りです。突き当たりの左右の通りが旧中山道です。左折して江戸側に向かって進みます。

最初は美濃国と近江国の境ま行くつもりでしたが、雨模様の天候が心配で途中で挫折。東海道本線を渡る野瀬踏切から引き返すことにしました。写真は野瀬踏切です。

これは野瀬踏切から江戸側の中山道を撮影したものです。江戸から59番目の宿場、今須宿方面です。

野瀬踏切を渡ってすぐ右折。旧中山道を柏原宿に向かって歩きます。雨が降り始めました。

10分ぐらい歩くと、左側に案内板と石碑がありました。石碑には「中山道柏原宿」と刻まれています。街道沿いに東町、市場町、今川町、西町がありました。天保14(1843)年の「宿村大概帳」によれば、柏原宿は人口1468人、家数344軒、本陣・脇本陣各1軒、旅籠22軒、江戸日本橋から114里27町8間(450.7km)でした。また、宿場の長さは13町(1.4km)ある大きな宿場町でした。

石碑から10分で東目付跡に着きます。設置されていた案内などによれば、宿の東の入り口で、道の両側に食い違いの形で土塁が築かれていたそうです。見付とは本来城門のこと、後に宿場用語になったそうです。貴人の到着時には宿場役人の出迎えの場になっていました。柏原宿には宿の西側に、西目付も設置されていました。

通りの両側には「中山道柏原宿」の看板が続いています。

柏原宿にはベンガラ(弁柄)で塗られたお宅が続いています。建物はほとんどすべて建て替えられていましたが、建て替えのときには従来の工法で建てるお宅が多いため、旧街道の雰囲気を今も感じ取ることができます。

八幡神社を過ぎて、「JR柏原駅0.3km」の現代の道標の先の民家に、屋号が書かれていました。「旅籠屋 大和郡山藩坂田郡内取締大工 惣左衛門」。柏原宿は、この中に書かれているように、江戸時代初期は天領でしたが、享保9(1724)年に、柳沢吉保で知られる大和郡山藩領になりました。

この写真は、旧中山道からJR柏原駅を撮影したものです。この先からが柏原宿の中心部、市場町にはいります。

ベンガラで塗られたお宅が続いています。雨は降ったり止んだり、蝋燭屋助三郎、煮売屋源蔵、旅籠屋角屋久蔵などの屋号を見ながら進みます。

通りの左側に「問屋役 杉野重右衛門」の屋号を掲げたお宅がありました。問屋は人馬の継立(つぎたて)を行う宿役人です。6軒の問屋が東西3軒ずつに別れ自宅で10日交代でつとめていました。村の年寄役が問屋を補助し、下役に帳付、馬指、人指がおりました。旧中山道の各宿場の継立のための人馬は、50人、50疋が常備されていました(ただ、木曽路11宿は例外で25人、25疋になっていましたが)。人馬の輸送を助ける助郷村は52ヶ村。遠方の村が多く宿場も助郷村もともに苦しんでいたといわれています。隣のはびろ会館があるところに、「東の荷蔵跡」がありました。荷物の移送が当日中にできなかったとき、荷物を保管したところです。藩の年貢米を集荷する郷蔵(ごうぐら)も兼ねていました。西の荷蔵もあるそうです。

街道をはさんで斜め前、郵便局の手前に脇本陣跡がありました。「脇本陣 問屋役 年寄 南部源右衛門」と屋号に書かれていました。この先にある本陣の南部家の別家で、江戸時代を通して脇本陣をつとめました。敷地は隣の郵便局を含む228坪、建坪73坪という広さでした。

脇本陣の向かいの「旅籠屋京丸屋五兵衛」。この前にあった案内板にあった天保14(1843)年の職業記録には、「もぐさや9軒、造り酒屋3軒、炭火茶屋(煮売屋)12軒、大工10軒、豆腐屋9軒、鍛冶屋1軒、医師1軒、その他商人が28軒、職人が13軒・・・」などが書かれています。

京丸屋の先にあった「医師 年寄 堤覚之丞」の邸宅跡。一時、柏原小学校が置かれたこともありますが、現在は接骨院になっていました。

接骨院の向かいにあった案内板。柏原宿の概略の説明がありました。

その裏にあったお宅が、「暖流」「夜明け前」「足摺岬」「越前竹人形」などの作品で知られる映画監督吉村公三郎さんの生家です。祖父は柏原宿の最後の庄屋、父は広島市長、兄は朝日新聞記者で「天声人語」の執筆者だったということです。

本陣の南部辰右衛門家跡です。脇本陣跡の隣が「造り酒屋 西川瀬左衛門」家跡、その次が「東の庄屋 吉村武衛門」家跡(吉村公三郎生家)、その隣が本陣でした。敷地526坪、建坪138坪。文久元(1861)年皇女和宮の江戸下向のときの宿泊地になりました。4000人を超える行列への対応で、宿役人は大変だったことでしょう。その後、14代将軍家茂が、第二次長州征伐の途上の慶応元(1865)年に、この本陣に宿泊しています。明治になってから柏原小学校の前身である郷学校がここで創設されました。

その先に市場橋を渡りますが、その手前右側に火伏せの神として知られる秋葉山の常夜灯がありました。文化12(1814)年建立の常夜灯でした。その手前に高札場があったそうです。江戸中期から幕末まで8枚の高札が掲げられていました。正徳大高札が6枚、明和大高札1枚、隣の宿場までの運賃添高札1枚です。高さ0.9mの石垣の上に、高さ3.33mの建物が建てられていたということです。

市場橋を渡ります。前方左側の広い更地があり、その向こうに広大な屋敷が見えました。めざしていた「艾屋 亀屋七兵衛佐京」、柏原宿にただ一つ残る艾屋です。建物は文化12(1815)年頃の建築といわれています。

伊吹堂の立派な看板が掛けてあります。伊吹堂の6代目七兵衛佐京は、当時江戸の流行の中心だった吉原で、遊女に「江州柏原の伊吹山の麓、亀屋佐京の切り艾」と歌わせたり、「伊吹艾」の浄瑠璃をつくって演じさせたりしたそうです。そのため、伊吹艾は全国に知られるようになり、9軒の艾屋が並ぶ繁栄を迎えたのでした。

艾は伊吹山に自生しているオオヨモギが原料です。葉を乾燥させ、石臼でひいて葉の裏の白い綿毛のようなものを採集してつくりました。現在も従来からの方法で艾をつくって販売しているそうです。私が訪ねた日、お店は閉まっていました。「土曜日・日曜日は閉まっています」とのことでした。私は、この店の番頭がモデルになってできた、元祖福助人形を見たかったので、お休みだったのはほんとうに残念でした。

街道の右側の先にあった柏原役場跡です。現在は診療所になっています。「中山道六拾宿 中山道柏原宿」の石碑がありました。旗は「やいとまつり」と染められて、街道筋の各家に立てられていました。

その先にあった「柏原宿歴史館」です。松浦久一郎邸を改修して、平成10(1998)年に開館しました。建物は文化庁の登録有形文化財に登録されています。

歴史館には柏原宿を代表する史料が展示されています。万治元(1660)年から昭和30(1955)年の長期にわたる柏原宿や柏原村の出来事を書き留めていた記録、「萬留帳(よろずとめちょう)」。宿場内の案内が充実しているのはこの史料のおかげだと思います。2つ目は、高札場に掲示していた正徳年号の高札です。三つ目は、この先にある柏原御茶屋御殿の玄関にあった蟇股(かえるまた)です。装飾用の部材です。歴史館の内部は撮影禁止になっていました。

左側に農業協同組合があります。ここは柏原小学校のあったところです。柏原宿本陣跡に最初につくられた郷学校は、今川町に移り「開文学校」と改称されました。その後、医師、堤覚之丞の邸宅跡に移り、明治11(1898)年にこの地に移って初めての校舎を建築しました。この地は、中世、柏原にあった箕浦代官所だったところだそうです。柏原小学校は、昭和33(1958)年に国道21号線沿いの現在地に移るまで、この地にありました。

街道の向かいにあった「中山道 柏原宿」の碑。人間の背より高い木製の碑です。

福祉交流センターに入っていく道が、街道から左に延びています。ここは、江戸時代、西の荷蔵が設置されていたところです。東の荷蔵と同じように使われていました。また、隣の「艾屋 年寄 亀屋 山根為蔵」家の別棟に、明治34(1901)年に柏原銀行が設立されました。昭和18(1943)年に滋賀銀行と合併するまでの42年間、この地の産業活動を支援していました。

左側に学習塾のKUMON。ここに、「年寄 木村勘左衛門」の邸宅がありました。その先に、石の道標が残っています。

これがその道標です。「やくし江乃道」と刻まれています。最澄が創建したという明星山明星輪寺泉明院への道標です。道標は、享保2(1717)年の建立で、正面が漢文、横2面がひらがなと変体かなが使われています。

その先の交差点です。右前が柏原御茶屋御殿が置かれていたところです。江戸幕府の3代将軍、徳川家光のとき、将軍の上洛時の休息や宿泊のための施設としてつくられ、元禄2(1689)年に廃止されました。江戸時代を通じて14回使用されたそうです。

現在は、当時の井戸跡だけが残っています。

左側にどっしりとしたお宅があります。

郷宿跡の案内が立っていました。郷宿とは、案内によれば「脇本陣と旅籠屋の中間の施設で、武士や公用で旅する庄屋などの休息や宿泊に使われていた」そうです。

緩やかな右カーブを進むと、中井川橋を渡ります。柏原宿の出口が近づいてきました。

丸山橋を渡りすぐ左折すると、形のいい一里塚が見えました。もちろん復元されたものです。ここは江戸の日本橋から115番目の一里塚だったそうです。江戸方115里の地点ということでしょう。

説明によれば、北塚は街道の右側の愛宕神社の参道の隣の白い建物、「仲町集会所」のあたりに築かれていたそうです。

南塚は「街道を横切る2本の川のため、東側の川岸で、街道より奥まったところに置かれた。現在は東側の川床になっている」とのことです。この川の川床かな? 古図には、2つの塚とも3本の榎(えのき)の木が描かれているそうです。 

南塚の位置がよくわからないので、心残りでしたが、先に進みます。

5分ぐらいで、西目付跡に着きます。柏原宿の西の出口です。東目付と同じ構造だったそうです。この地点の高さは、標高174m。彦根城の天守閣の上にもう一つ天守閣を積み上げたぐらいの高さなのだそうです。ここまで、東の入り口から13町(1.4km)。 長い高地の道が続いているのですね。

続いて、「中山道柏原宿」の石碑です。これも東の入り口付近の石碑と同じつくりでした。

石碑の先には、かつての松並木が残っています。

松並木を抜けると、中山道は田んぼの中を進むことになります。旅人は、次の醒ヶ井(さめがい)宿まで1里半(5.9km)、山沿いの道を進んでいくことになります。

艾を売る「伊吹堂 亀屋佐京」のお店が見たくてやって来た旧中山道柏原宿でしたが、残念ながら、お店は休業日でした。しかし、柏原宿の町並みの説明も丁寧で、かつての宿場町の姿をしのぶことができました。雨の中を歩いた苦労が報われた気がしました。 





















最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
見ました (山田のクリ)
2014-07-25 06:54:46
 またまた、珍しい所へ連れて行ってくださりありがとうございます。もぐさを売る店があったとは初めて知りました。楽しく読ませて頂きました。
返信する
楽しませてもらいました (イデイ)
2014-08-20 23:16:31
 7月の下旬のことです。2014夏の青春18切符の使途はまず大相撲名古屋場所観戦と決めていました。その計画途中にばったりこのブログを見てしまい、往路はぜひ柏原に寄ろうと決めました。実は本格的?に宿場町を歩くのははじめてでしたが、本当に良かったです。暑くても暑くても、心地よく町並を楽しみました。土日ではなかったけど祝日だったので?伊吹堂はお休みでした。また、この日の予定を欲張っていた為 -関ヶ原観光、宿は大垣など- 残念ながら、ここで多くの時間を費やすことができませんでした。
 私の旅はまだまだ未熟ですが、これからも勝手に”トシの旅”を参考にして、楽しませてもらいます。
返信する

コメントを投稿