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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

瀬戸内地域で「最古の商家」木原家のある町、白市

2017年09月01日 | 日記

広島空港のある東広島市の丘陵地帯に、江戸時代前期に建てられた「瀬戸内地域で最古」といわれる町家が残っています。これが、東広島市の白市にある木原家住宅です。今回は、木原家住宅のある白市の町並みを訪ねてきました。

真夏の日射しで、漆喰の白さが目に染みます。入口にあったブザーを押して、出てこられた管理者の方に入場料150円を支払って、見学させていただきました。「説明しましょうか」とお尋ねでしたので「はい」とお答えしました。管理者の方は、木原家と白市の町について、ていねいな説明をしてくださいました。木原家は平入りの切妻造り、厨子2階建て、間口6間半、奥行5間の建物でした。江戸時代には、南側の歯科医院の部分も含む広い敷地を有していました。

内部に展示されていた「鬼瓦」です。「寛文五年五月廿七日」と篦(へら)で書かれた銘がついていました。寛文5年は1665年。江戸時代前期の建物です。 戦後の経済環境の激変によって衰え、主家(おもや)も放置されていましたが、木原家住宅は、創建以来300年という商家であるとして、昭和41(1966)年6月11日、国の重要文化財に指定されました。そして、2年後の、昭和43(1968)年に保存修理が行われ、現在の姿に復元されました。管理者の方がつくられた資料の中に「創建が江戸初期の重要文化財の町家」を古い順に並べた資料がありました。それによると、「①栗山家住宅:慶長12(1607)年奈良県五條市 ②山口家住宅:元和年間(1615~1624)堺市錦之町 ③中村家住宅:寛永9(1632)年奈良県御所市名柄 ④今西家住宅:慶安3(1650)年奈良県橿原市今井町 ⑤豊田家住宅:寛文2(1662)年奈良県橿原市今井町 ⑥旧木原家住宅:寛文5(1665)年」と書かれていました。国指定の重要文化財の町家に限れば、「瀬戸内地域で最古」というのも肯かれます。

江戸時代、木原家はここで酒造業を営んでいたほか、瀬戸内海沿岸で製塩業も営み、財をなした豪商でした。土間が奥まで続き、主家の左側は板間になっていました。厨子2階建ての2階部分は、従業員の寝室や納屋として使われていたそうです。

主家の裏です。酒造業を営んでいた頃の作業場があったところです。広い敷地の向こう側は、江戸時代から、歌舞伎を上演する劇場の「長栄座(ちょうえいざ)」があったところです。

酒造業に使われていた井戸がありました。管理者の方のお話では「すごく深いですよ」とのこと。木原家は、財をなした後、白市やその周辺の寺社への寄進を積極的に行っています。白市で町年寄をつとめた木原保満が寄進した供養塔や石灯籠が、光政寺(こうしょうじ)、西福寺(さいふくじ)、養国寺(ようこくじ)、土宮神社など、現在も白市に残る寺社の中に残されています。

主家の中にあった、木原保満の肖像画です。元禄元(1688)年に白市屋伊左衛門の長男として生まれ、4歳のときに父が死去したため、祖父母の木原七郎左衛門に育てられました。18歳のとき、木原家を継いでいた孫六が興した、大原屋(管理者の方のお話では木原家は親族の家も含めて3家あったようです)の養子となりました。享保10(1725)年には白市の町年寄となり、町の振興にも貢献した方でした。

晴れ渡った夏の1日、山陽本線のJR糸崎駅でJR大野浦駅行きの普通列車に乗り継ぎ、白市駅に着きました。

JR白市駅です。ここから白市の町まで、歩いて30分ぐらいかかりました。

駅前からは、広島空港へ向かうバスが出発していて、白市駅は広島空港への玄関口になっています。

駅から左方向(広島方面)に向かって歩き、山陽本線と並行して走る主要地方道59号(本郷忠海線)に出ます。

国道59号を、右側に食品スーパーの建物を見ながら、さらに進みます。前方に交通標識が見えてきました。「重要文化財木原家住宅」と書かれています。標識の先を右折して、広島県道351号造賀田万里(ぞうかたまり)線を進んで行きます。

県道造賀田万里線はそこから大きくS字にカーブして丘陵地帯を上っていきます。その後、広い住宅団地を左側に見ながらさらに上りました。

道路の左側に、「木原家住宅」と書かれた標識が道路の左側にありました。標識の矢印にしたがって右折します。集落に近づいて緩い左カーブを回ると、駐車場がありました。

駐車場にあった案内図です。少し見づらいのですが、駐車場(右から2本目の縦の道)からまっすぐ北に進むと、木原家住宅の前に出ます。しかし、私は、ここから、駐車場の一本右の道(東町)を北に進むことにしました。

駐車場から50mぐらい進み、Uターンして、西福寺に向かって石段を上って行きます。さて、ここ白市が発展したきっかけは、戦国時代の文亀3(1503)年、平賀弘保(ひろやす)が、防御を固めるため白山城を築いたことでした。平賀氏は、もともと出羽国平賀郡(現・秋田県横手市付近)の御家人の一族でしたが、いわゆる東国武士の西遷によってこの付近に移り、弘安(1278~88)年間に、現在のJR西高屋駅の北4kmぐらいのところにある御園宇城(みそのうじょう)を築き、長い間本拠地にしていました。白山城は、白市の東にある城山(標高314.1m)にありました。

城山の西麓にある西福寺(浄土宗)の境内に入りました。左側の建物が本堂です。もとは、安芸国賀茂郡溝口村にあった大福寺で、当時の住職、西蓮法師が、天正12(1585)年にこの地に移し、自身の名から1字取って「西福寺」と改名したそうです。

「元文5年」(1740年)の銘が刻まれた供養塔です。木原保満の寄進によるものです。

本堂の左側を通って進みます。その先にある光政寺に向かうつもりでした。

突きあたりを右折します。左側に「東町ふれあい公園」がありました。

東町ふれあい公園です。白市の町の説明板がつくられ、展望台にもなっていました。

東町ふれあい公園から見た白市の町並みです。建て替わっているお宅もありますが、赤い釉薬瓦の伝統的な民家がかなり残っています。この町のかつての繁栄のようすがしのばれます。一番高いところにあるのが、養国寺(浄土真宗)です。

東町ふれあい公園の脇にある光政寺の参道の石段を上ります。光政寺は白山城を居城とした平賀氏の菩提寺で、永正2(1505)年に建立された真言宗の寺院です。 さて16世紀、大内氏と、毛利氏と結んだ尼子(あまこ)氏の抗争の影響で、平賀氏一族も分裂、抗争を続け、大内氏の滅亡後は、毛利氏に従うことになりました。そして、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後は、毛利氏とともに周防・長門の国に移って行きました。城下町として発展してきた白市は、それ以後、平賀氏の旧家臣が商業を営みながら町政を担っていたといわれています。

平賀氏は去りましたが、白市の町は、養国寺や西福寺などの寺院が残ったこともあり、安芸の国東部の交通の要衝、地域経済の中心地として、繁栄が続くことになりました。江戸時代になってからは、牛馬市が開かれたり、長栄座での歌舞伎興行も行われていました。 写真の左側の石像は、木原保満が寄進した宝篋印塔です。この寺にも、木原家の足跡が残っていました。

光政寺の本堂の脇には、木原家の墓地がありました。現在の光政寺は無住の寺になっています。「安芸門徒」といわれるように、安芸の国は浄土真宗の信徒が多いところです。「真言宗の寺院では、城主が去って支援者を失うと維持するのが難しかったと思う」と町の人はいわれていました。木原家の墓地のある付近には雑草が生い茂っており、近づくのが辛い状態になっていました。


ここからは、町並みを見て歩くことにしました。木原家だけではなく、かつての繁栄の跡を残す商家がたくさん残っており、町並みの美しさもすばらしい町でした。

東町ふれあい公園の道に戻り、東町を北に向かって上ります。

I氏邸付近です。このあたりに、歌舞伎の興行も行われた長栄座があったそうです。今は、静かな住宅地になっていました。

その近くから木原家が見えました。主家から突き出して造られた、三角形の別棟の角屋(つのや)が見えています。その先で、左折(西行)します。

左折して西に進むと、右側に「白瀧山養国寺」と書かれた石製の門がありました。その先に、本堂が見えます。先ほど、東町ふれあい公園から見えていた養国寺です。元暦元(1184)年に真言宗の寺院として創建されましたが、天正年間(1573年~1591年)に改宗して、現在の浄土真宗白滝山養国寺となりました。

長い参道を歩いて、石段で鐘楼門をくぐります。本堂に着きました。ここにも、木原保満の寄進になるものが残っていました。右側に石灯籠が見えますが、左側にもあって、右側が「寛延4(1751)年=宝暦元年」に、左側が「宝暦11(1761)年に寄進したものでした。

これは、この先にある稲荷神社の玉垣です。「矢野曲馬團」(矢野サーカス)「木下曲馬團」(木下サーカス)の銘のある玉垣が寄進されていました。サーカスの興行は、養国寺の前の広場にテントを張って行われていたそうです。

通りに戻って、再度、西に向かって進みます。左側から上ってくる通りと合流します。その通りの左側、恵美須神社の隣に、白漆喰がまぶしい木原家の主家が見えました。このあたりは本町です。

さらに、西に向って栄町を歩きます。右側にあった伊原惣十郎家です。出雲出身の鋳物師の頭で、邸宅の裏(現在、竹林になっているところ)に作業場があったそうです。喚鐘の製造で財を成した家柄で、京都御所の灯籠や宮島大灯籠を鋳造し寄進したことで知られています。建物は明治時代の建築になるもので、御成門や石垣など、力強く美しい邸宅です。

地元の方から、「かつてTVで放映された時には、この鋳物の装飾が取り上げられていました」というお話をお聞きしました。

左側の伊原八郎家です。大正時代に数寄屋造で建てられ、すでに100年が経過しています。上品な印象を受ける建物です。こちらの伊原家も出雲の出身で、金融業で財を成したといわれています。

特に、この門が印象に残りました。

その先の稲荷神社の前から、来た道を振り返って見た風景です。電柱が気になりましたが、左が伊原惣十郎家、右が伊原八郎家、そして、ゆるやかに下っていく坂道、白市で最も美しい風景でした。

坂を登り切ったところにあった稲荷神社の前から、伊原惣十郎家の方向を撮影しました。稲荷神社の東の向かいにあった「栄町いなり坂公園」です。江戸時代には西条郡役所が、明治になってからは白市村役場がここに置かれていました。白市村は、その後、東高屋町、高屋町となり、現在は東広島市になっています。

稲荷神社からさらに西に向かって、坂を今度は下っていきます。白市交流会館を過ぎると、左側に、明治期に建てられたという舛井家が見えてきました。ここも御成門や格子造りで、袖壁もついている重厚な感じがする邸宅でした。

白市は、牛馬市が開かれていた町です。木原家でいただいた観光マップを見ながら、牛馬市跡をめざします。さらに西に進み、福村建設の手前を右折して北へ進みます。

お好み焼きのお店を過ぎると、石垣のあるお宅が見えました。このあたりから、牛馬市が行われていただろうと思い、すぐに引き返してしまいました。しかし、帰ってから見直すと、「牛馬市跡」の碑があると書かれていました。この先、もう少し歩いていたらと後悔しました。



スタート地点の駐車場へ戻ります。白市の町歩きの最後に、下市から本町を通って、木原家まで行くことにしました。

北に向かって右側にあった勝田家です。その先から、右に向かう小路が出ています。通り過ぎて、その小路付近を撮影しました。勝田家は、江戸時代後期から末期に建造されたお宅で、白市では木原家に次いで古い建築と考えられています。醤油の醸造を生業とされていたそうです。

勝田家の先、左側にあった重満家です。江戸末期から明治にかけて建造された建物のようです。酒造業を営んでおられたお宅です。現在は重満家になっていますが、ここも、木原家の一族のお宅だったとお聞きしました。

木原家の向かいにあったお宅です。現代の名建築といった建物です。お話によれば、木原家の番頭さんのような役割を果たしておられた方のお宅だということです。

「瀬戸内地方で最古の町家建築」といわれている木原家と、美しい白市の町を歩いてきました。JR白市駅を降りたときには、山の中にほんとうにそんな町があるのだろうかと思っていましたが、実際に訪ねてみると、余りのすばらしさに感動してしまいました。一つ一つの建物がすばらしいだけでなく、町全体の雰囲気もすばらしく、これからも、この美しい町並みを残してほしいと心の底から思いました。



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