江戸時代、京都から大坂を経て下関を結んでいた西国街道。岡山では「山陽道」と呼ばれています。山陽道からみる備中国分寺の姿は「吉備路」のポスターに使われるなど、岡山県人に親しまれている街道です。
10月20日、「旧山陽道歩く会」の「歩こう、連(つな)ごう、旧山陽道」のイベントに参加しました。岡山宿から山陽道に沿って東に向かい、次の宿場である藤井宿まで歩きました。先導は、今話題の「おかやま街歩きノオト」を出版された福田忍氏でした。参加者が雨のためか大変少なかったのがお気の毒でした。
出発は、かつての岡山城下町の西の出口、万町惣門があったところでした。線路から1ブロック西の交差点。ここには、江戸時代には、柱と柱の間 3.3mといわれた惣門と番小屋・常夜灯があったそうです。
山陽道を西に向かう旅人は、ここから、奉還町商店街を通って吉備路方面に向かっていました。
地下道でJR山陽本線の下をくぐります。明治24(1891)年、山陽線が開通してからは万町の東半分は鉄道用地になりました。写真は、地下道を出たところ、現在の岩田町の通りです。この道路は愛称「後楽園通り」、日本三大名園の一つ後楽園につながっている通りです。東に進みます。
西川を渡ります。青柳橋です。江戸時代、西川には12の橋が架かっていました。ここには、北から2つ目にあたる二ノ橋がありました。さらに東に進みます。
左側に旭文具のある交差点を右折します。南に進みます。
前方は、岡山駅前から東に延びる桃太郎大通りです。左折して柳川交差点を渡ります。
そして、岡山シンフォニーホールの西に広がる表町商店街に入ります。「アムスメール」と書かれた入り口から入ります。
表町商店街は、かつてはブロックごとに上之町、中之町、下之町など8町に分かれていました。商店街の北部(入り口付近)は福岡町と呼ばれていました。中世の「備前福岡の市」で知られる福岡は、戦国時代を通じて商業の中心地でした。福岡町には、備前福岡から移ってきた商人が居住していました。ちなみに、岡山藩では職人町や商人町は「まち」と呼ばれていましたが、この3町だけは「かみのちょう」「なかのちょう」「しものちょう」とよばれていました。
まっすぐ南に進み、旧西大寺町の時計台のところで左折します。
旧西大寺町を出ました。通ってきたアーケードを振り返って撮影しました。
旧西大寺町から京橋方面に進みます。右側にある白いビルの手前の緑色に見える切妻屋根の建物は「大手まんじゅう」の伊部屋です。「大手」という名前からもわかるように、このあたりは岡山城の大手門の前にあたるところでした。
伊部屋の左向かいに左に入る道路があります。この道が武家地である二の丸を経て大手門に続く道でした。この先の両側の一帯は江戸時代の橋本町でした。岡山城下で最も栄えた町人町でした。
京橋です。宇喜多秀家がここに架橋しました。それ以前は、もっと上流の、現在の相生橋があるあたりに架けられていたそうです。京や大坂の呉服店が多く京町と呼ばれていたので「京橋」の名がつけられたそうです。京橋の西詰めにあたるこのあたりには、瓦葺きの大門と高札場が設けられていました。(大門は、現在、市内小串の赤木家の門として使われています)。
橋のたもとには、弘化4(1847)年、架け替えされた京橋の渡り初めのときの図が描かれています。また、京橋と平行してつくられている水道管橋は、明治38(1905)年、岡山市の水道敷設の時のもので、登録有形文化財に指定されています。
京橋を渡ります。その先は西中島町です。江戸時代を通じて旅籠屋の多い地域で、旅の商人が宿泊するのはここに限るとされていました。明治時代以降、自然発生的に生じた遊興街からこの地に遊郭ができていました。昭和33(1948)年に廃止されましたが、今も雰囲気ある家並みが残っています。
西中島の東詰めです。ここには橋守(はしもり)の詰所があったそうで、橋守は欄干の掃除をしたり橋に寝ている者を追い払ったりしていたそうです。
かつて、写真の石柱の間に「栴檀木稲荷神社(せんだぎいなりじんじゃ)」がありました。土手下のお狐さまの穴に油揚げを供えて願い事をする風習があったらしいのです。この写真は3年程前に撮影したのですが、この祠はすでに撤去されていました。
西中島町からは、「長さ二拾二間半、幅3間4尺」といわれている中橋を渡り東中島町に入ります。東中島町は一部「馬方町」と呼ばれ、馬関係の町役人が常駐していたようです。写真は小橋。小橋の先(東)は小橋町です。
小橋町は、江戸初期には鍛治屋橋と呼ばれていました。江戸時代の末期には「馬問屋」があり馬継ぎを行っていたそうです。旧西大寺町の出口から平行して走っていた岡山電気軌道の電車はここで右折して行きます。カーブが始まる左側に、岡山名物の「吉備団子」で知られる広栄堂武田と広栄堂本店が並んでいます。
広栄堂本店の先を左折(東行)して進みます。この先は、江戸時代の大黒町。馬方屋敷があったことから馬方町とも呼ばれていました。
その先は、江戸時代には下片上町、その先が上片上町でした。古くは、上片上町は片上町、下片上町は伊部町と呼ばれていたそうです。備前市の片上や伊部からの移住者が住んでいました。どちらの町にも伊部焼き(備前焼)を商う店が多かったようです。今は、中納言町になっています。幕末、このあたりで焼き餅を売っていたそうです。焼き餅から「大伴家持(やかもち)」を連想し、彼が中納言であったため「中納言の焼き餅」というようになり、町の名前にもなったそうです。
建設会社のビルの手前で左折(西行)して旭川の方に歩きます。
道路とぶつかって再度左折(南行)すると、重厚な門があります。岡山藩筆頭家老伊木家の中屋敷の長屋門が残っていました。このあたりの地名は「小橋町中屋敷」。やはり、この中屋敷の影響力が残っているのですね。
再び、旧街道にもどり東に進みます。すぐに「いさおはし」の石標が見えました。旭川に注ぐ御成川にかかる勲橋です。旧名は片上橋。幕末には、長さ12間(約22m)幅3間(約5.5m)という大きな橋でした。現在、橋の下は御成川遊園地になっています。
勲橋の先から振り返って撮影しました。今は6mぐらいの橋になっています。勲橋(片上橋)の東の旭川に面したところは、県庁付近にあった伊木家の屋敷の向かいにあたり、伊木家請地屋敷(いぎけうけちやしき)が広がっていました。
そこから1ブロック進むと、県庁前から東に向かう道を渡ります。宇喜多直家の時代には、相生橋のあたりから対岸に渡るようにして、現在の県庁通りに広い道をつけて天満屋百貨店のあたりまで山陽道を引き入れていました。県庁通りからの道を越えるとすぐ右に進んでいく道路があります。この道は旧制第六高等学校(六高)の正門に続く道です。六高ができたとき切り開いてつくった道でした。現在は、六高の後を継いだ岡山県立岡山朝日高校に向かっています。この先、道路には松並木も残っていました。
その先の緩い右カーブを回ります。古京郵便局が右側に見えてきます。その手前の民家の前に石碑が見えました。小説家内田百間(ひゃっけん)の生家跡です。。
かれは、ここ古京町の造り酒屋志保屋の一人息子に生まれました。父が死んでから商売に失敗し、家屋敷は人手に渡りましたが、六高を卒業し東京帝大に進学するまで、祖母と母と3人でこの先の借家に住んでいたといわれています
その先の森下町に入ります。このあたりは昭和20(1945)年の岡山空襲の時にも焼け残ったところで、古い民家が点々と残っています。左側に、趣のある民家がありました。その向かいに案内板がありました。南に向かって立っていましたので、集団で歩いていないと見落としてしまうところでした。
岡山城下町の入り口にあった惣門跡を振り返って撮影しました。写真よりも右に、案内板がありました。惣門の内側には番所があり、午後8時頃から翌日の午前4時ぐらいまでは閉じられていたそうです。この一つ南の通りは、御堂(みどう)町と呼ばれていました。宇喜多氏が城下町の建設を始めた頃、それ以前榎の馬場にあった蓮昌寺がこの地に移ってきました。その後、小早川秀秋が入城したとき、再度田町に移ることになりましたが、地名だけは残っていたようです。
総門跡で岡山城下町を出て、大坂方面に向かう道を進みます。すぐに通りを斜めに横断して進みます。
すぐに、右側に、両備バスの岡山営業所がありました。
その手前の左側に、緩やかにカーブした道があります。後楽園と西大寺を結んでいた西大寺鉄道(「軽便鉄道=けいべんてつどう」と呼ばれていました)の線路跡です。後楽園駅を出て、路地の向こう側からこちらに向かって進んで来た西大寺行きの軽便鉄道は、両備バスの岡山営業所にあったかつての「森下駅」に入って行きました。
旧街道の右側です。軽便鉄道は、この道路の跡をゆるやかに左にカーブして、この先の車庫があるあたりにあった森下駅に入っていっていました。明治44(1911)年12月、西大寺から工事が始まり12月にはここ森下駅まで開通しました。昭和37(1962)年に廃止され、森下駅は後に両備バスの営業所になったそうです。
さらに、先に進みます。県道原尾島・番町線を横断します。旧山陽道は、右側の狭い道を進んで行きます。
その先にあった駐車場の案内には「街道筋」の名が。いかにも旧街道らしい光景です。
旧街道の右側にあった龍翔寺跡。この地域が上道郡宇野村といわれた頃、明治22(1889)年から昭和6(1931)年まで、旧宇野村役場が設置されていました。山門のみが残っており中には寺院の名残はまったく残っていませんでした。
この道は、百間川に向かって行きますが、現在は土手で行き止まりになっています。ここを、右に曲がり下流に進み、旧国道2号線と交差する手前に県営住宅がありますが、ここはかつて競馬場があったところです。この日は、ここで左に曲がり迂回して百間川を渡ります。
写真は百間川です。旧街道があったあたりを撮影しました。写真の左は百間川の東岸です。百間川は、江戸時代岡山藩によって整備された放水路で、平素はほとんど水が流れておらず、河川敷には水田が広がっていました。百間川を渡る旅人は歩いて渡っており、切り通しのようにつくられた土手の門から対岸に入っていました。大水が出た時には、門で板を使って仕切り、集落に水が入ってくるのを防いでいました。この施設を陸閘(りっこう)と呼んでいました。3,40年前、私はこの近くにあった職場で働いていましたが、当時は陸閘がまだ残っていました。
百間川の東岸です。このあたりは「二本松」と呼ばれているところです。東岸の土手上に2本の大きな松が生えていました。一里塚だったといわれており、昭和の初めまで茶屋も残っていたようです。昭和9(1934)年の室戸台風の大水で流されたといわれています。
この写真は、上の写真の交差点から右の方を撮影したものです。道路の先の右側にかつて陸閘がありました。大坂方面に向かう旧街道は手前に向かっておりました。交差点で右折して東に向かっていました。
二本松のバス停付近で右にカーブして、東に向かいます。タクシーの岡山交通旭東営業所です。ここが、軽便鉄道の藤原駅があったところです。
岡山交通旭東営業所の車庫です。線路跡に沿って車庫もゆるやかにカーブしていました。
その先で県道原・原尾島線を渡ります。ここからは、ひたすら歩く旅になりました。地元の人が「旧国道」(平行して南を走っている道が国道2号線だったときにこう呼ばれていましたが、現在は国道2号線がさらに南を走っていますので、正確には「旧旧国道」なのかもしれません)と呼ぶ旧山陽道を東に向かって歩きます。
藤原から高屋、兼基、乙多見を経て30分ほどで、右側に岡山長岡郵便局が見えてきます。その手前に道標がありました。
写真は、左(北)に折れてJR東岡山駅に向かう道です。右(南)方向に向かう道は、県道九蟠・東岡山停車場線の九蟠方面に行く道です。道標は明治38(1905)年に建てられたものです。「財田村大字東神下一厘堂吉田兼五郎」が建てたと記されていました。道標の左の面には「神戸 大坂 京 と 岡山 玉島」を案内しています。右の面には「長岡駅 西大寺観音院」を案内していました。「長岡駅」は、現在のJR東岡山駅のことです。明治44(1911)年、西大寺軽便鉄道の長岡駅が設置されました。現在の「東岡山駅」になったのは、昭和36(1961)年のことでした。
さらにさらに進んでいきます。やがて張り出してきた山の麓を歩きます。
新幹線のガードをくぐります。このあたりから、工場も住宅もとぎれて田園風景が続くようになります。
さらに歩き続けます。左に岡山市立古都小学校が見えました。さらに歩きます。
山の南麓を歩きます。12時40分頃、百間川の西岸を出発してから、約1時間30分。藤井宿の入り口にある素盞鳴(すさのお)神社に着きました。石灯籠には、天保2(1831)年の銘がありました。
幕末、尊王攘夷運動が高まる中、元治元(1864)年、幕府は長州征伐を断行します。岡山藩では、長州征伐のために西に向かう各藩の部隊が岡山城下を通過するのを防ぐため、ここから宿奥、奥矢津、牟佐を経由して旭川を渡るコースを7月15日から通過させることにしました。大坂方面から、写真の右側にやってきた部隊は神社の脇を写真の奥(北)に向かって新往来を進んでいました。
雨のせいもあってか、静かな藤井宿。しかし、家並みにはかつての雰囲気を感じることができます。しばらく進むと、左側に本陣安井家の土塀が見えました。
安井本陣は、寛永(1624~1644)年間、岡山藩主池田光政によって、藤井に在住していた安井庄兵衛の邸宅を本陣にあてて設けられました。今にも崩れそうな土塀です。小さな壕も残っていました。藤井宿は、岡山から東に向かう最初の休泊地でした。本陣は、明治になって解体されたようです。
かつて、藤井宿を示す写真にはいつもこの門が写っていましたが、今は、広い庭も更地になっていて、どなたも住んでおられないような印象でした。中には入れませんでしたが、明治天皇が立ち寄ったことを記念する石碑(犬養毅の揮毫による)が庭に残っているそうです。
少し東に進みます。旧山陽道藤井宿は賑わいを増し、元禄(1688~1704)年間、もう一つ本陣(西崎家)が設置されました。安井本陣の向かい側の東寄りにあったので、「東本陣」と呼ばれました。従来の安井本陣は、西本陣と呼ばれるようになりました。
東本陣跡があったところを東側から撮影しました。もちろん当時の建物は残っていません。藤井宿は、建物はほとんど建て替わっていましたが、家並みの雰囲気はなかなかのものでした。
さらに東に向かいます。鉄の産出に由来する鉄(くろがね)の地に入ります。四つ辻に石碑が残っていました。「安国寺経塔」と呼ばれている碑です。安国寺は南北朝時代に足利尊氏、直義兄弟が戦没者の供養のため全国に建てた寺院です。備前安国寺は、高師直(こうのもろなお・尊氏の側近)の家臣薬師寺公義が自分の居城を利用して設立したといわれています。その後、応仁の乱後の戦乱で、明応(1492~1501)年間に焼失しました。その後、江戸時代の初期の高僧、眠室宗安禅師が再建しました。この四つ辻を山に向かって登った中腹に、その跡地が残っています。
経塔のある四つ辻に常夜灯が残っています。天保10(1839)年3月の銘がありました。「大坂につながる唯一の道」(参加者)は、ここからさらに東に向かっていました。ここで、一応の終着点。JR上道駅に向かうことにしました。
この日は、雨の中、岡山城下町の西の入り口である万町惣門から東に向かい、最初の宿場である藤井宿まで、約14km(参加者のお話しでは16kmとも)を4時間半ぐらいかけて歩きました。岡山城下町の範囲と藤井宿を除くと、単調な道をひたすら先をめざす旅でした。江戸時代の旅も多分そうだったのだろうと思わせるような4時間半でした。
10月20日、「旧山陽道歩く会」の「歩こう、連(つな)ごう、旧山陽道」のイベントに参加しました。岡山宿から山陽道に沿って東に向かい、次の宿場である藤井宿まで歩きました。先導は、今話題の「おかやま街歩きノオト」を出版された福田忍氏でした。参加者が雨のためか大変少なかったのがお気の毒でした。
出発は、かつての岡山城下町の西の出口、万町惣門があったところでした。線路から1ブロック西の交差点。ここには、江戸時代には、柱と柱の間 3.3mといわれた惣門と番小屋・常夜灯があったそうです。
山陽道を西に向かう旅人は、ここから、奉還町商店街を通って吉備路方面に向かっていました。
地下道でJR山陽本線の下をくぐります。明治24(1891)年、山陽線が開通してからは万町の東半分は鉄道用地になりました。写真は、地下道を出たところ、現在の岩田町の通りです。この道路は愛称「後楽園通り」、日本三大名園の一つ後楽園につながっている通りです。東に進みます。
西川を渡ります。青柳橋です。江戸時代、西川には12の橋が架かっていました。ここには、北から2つ目にあたる二ノ橋がありました。さらに東に進みます。
左側に旭文具のある交差点を右折します。南に進みます。
前方は、岡山駅前から東に延びる桃太郎大通りです。左折して柳川交差点を渡ります。
そして、岡山シンフォニーホールの西に広がる表町商店街に入ります。「アムスメール」と書かれた入り口から入ります。
表町商店街は、かつてはブロックごとに上之町、中之町、下之町など8町に分かれていました。商店街の北部(入り口付近)は福岡町と呼ばれていました。中世の「備前福岡の市」で知られる福岡は、戦国時代を通じて商業の中心地でした。福岡町には、備前福岡から移ってきた商人が居住していました。ちなみに、岡山藩では職人町や商人町は「まち」と呼ばれていましたが、この3町だけは「かみのちょう」「なかのちょう」「しものちょう」とよばれていました。
まっすぐ南に進み、旧西大寺町の時計台のところで左折します。
旧西大寺町を出ました。通ってきたアーケードを振り返って撮影しました。
旧西大寺町から京橋方面に進みます。右側にある白いビルの手前の緑色に見える切妻屋根の建物は「大手まんじゅう」の伊部屋です。「大手」という名前からもわかるように、このあたりは岡山城の大手門の前にあたるところでした。
伊部屋の左向かいに左に入る道路があります。この道が武家地である二の丸を経て大手門に続く道でした。この先の両側の一帯は江戸時代の橋本町でした。岡山城下で最も栄えた町人町でした。
京橋です。宇喜多秀家がここに架橋しました。それ以前は、もっと上流の、現在の相生橋があるあたりに架けられていたそうです。京や大坂の呉服店が多く京町と呼ばれていたので「京橋」の名がつけられたそうです。京橋の西詰めにあたるこのあたりには、瓦葺きの大門と高札場が設けられていました。(大門は、現在、市内小串の赤木家の門として使われています)。
橋のたもとには、弘化4(1847)年、架け替えされた京橋の渡り初めのときの図が描かれています。また、京橋と平行してつくられている水道管橋は、明治38(1905)年、岡山市の水道敷設の時のもので、登録有形文化財に指定されています。
京橋を渡ります。その先は西中島町です。江戸時代を通じて旅籠屋の多い地域で、旅の商人が宿泊するのはここに限るとされていました。明治時代以降、自然発生的に生じた遊興街からこの地に遊郭ができていました。昭和33(1948)年に廃止されましたが、今も雰囲気ある家並みが残っています。
西中島の東詰めです。ここには橋守(はしもり)の詰所があったそうで、橋守は欄干の掃除をしたり橋に寝ている者を追い払ったりしていたそうです。
かつて、写真の石柱の間に「栴檀木稲荷神社(せんだぎいなりじんじゃ)」がありました。土手下のお狐さまの穴に油揚げを供えて願い事をする風習があったらしいのです。この写真は3年程前に撮影したのですが、この祠はすでに撤去されていました。
西中島町からは、「長さ二拾二間半、幅3間4尺」といわれている中橋を渡り東中島町に入ります。東中島町は一部「馬方町」と呼ばれ、馬関係の町役人が常駐していたようです。写真は小橋。小橋の先(東)は小橋町です。
小橋町は、江戸初期には鍛治屋橋と呼ばれていました。江戸時代の末期には「馬問屋」があり馬継ぎを行っていたそうです。旧西大寺町の出口から平行して走っていた岡山電気軌道の電車はここで右折して行きます。カーブが始まる左側に、岡山名物の「吉備団子」で知られる広栄堂武田と広栄堂本店が並んでいます。
広栄堂本店の先を左折(東行)して進みます。この先は、江戸時代の大黒町。馬方屋敷があったことから馬方町とも呼ばれていました。
その先は、江戸時代には下片上町、その先が上片上町でした。古くは、上片上町は片上町、下片上町は伊部町と呼ばれていたそうです。備前市の片上や伊部からの移住者が住んでいました。どちらの町にも伊部焼き(備前焼)を商う店が多かったようです。今は、中納言町になっています。幕末、このあたりで焼き餅を売っていたそうです。焼き餅から「大伴家持(やかもち)」を連想し、彼が中納言であったため「中納言の焼き餅」というようになり、町の名前にもなったそうです。
建設会社のビルの手前で左折(西行)して旭川の方に歩きます。
道路とぶつかって再度左折(南行)すると、重厚な門があります。岡山藩筆頭家老伊木家の中屋敷の長屋門が残っていました。このあたりの地名は「小橋町中屋敷」。やはり、この中屋敷の影響力が残っているのですね。
再び、旧街道にもどり東に進みます。すぐに「いさおはし」の石標が見えました。旭川に注ぐ御成川にかかる勲橋です。旧名は片上橋。幕末には、長さ12間(約22m)幅3間(約5.5m)という大きな橋でした。現在、橋の下は御成川遊園地になっています。
勲橋の先から振り返って撮影しました。今は6mぐらいの橋になっています。勲橋(片上橋)の東の旭川に面したところは、県庁付近にあった伊木家の屋敷の向かいにあたり、伊木家請地屋敷(いぎけうけちやしき)が広がっていました。
そこから1ブロック進むと、県庁前から東に向かう道を渡ります。宇喜多直家の時代には、相生橋のあたりから対岸に渡るようにして、現在の県庁通りに広い道をつけて天満屋百貨店のあたりまで山陽道を引き入れていました。県庁通りからの道を越えるとすぐ右に進んでいく道路があります。この道は旧制第六高等学校(六高)の正門に続く道です。六高ができたとき切り開いてつくった道でした。現在は、六高の後を継いだ岡山県立岡山朝日高校に向かっています。この先、道路には松並木も残っていました。
その先の緩い右カーブを回ります。古京郵便局が右側に見えてきます。その手前の民家の前に石碑が見えました。小説家内田百間(ひゃっけん)の生家跡です。。
かれは、ここ古京町の造り酒屋志保屋の一人息子に生まれました。父が死んでから商売に失敗し、家屋敷は人手に渡りましたが、六高を卒業し東京帝大に進学するまで、祖母と母と3人でこの先の借家に住んでいたといわれています
その先の森下町に入ります。このあたりは昭和20(1945)年の岡山空襲の時にも焼け残ったところで、古い民家が点々と残っています。左側に、趣のある民家がありました。その向かいに案内板がありました。南に向かって立っていましたので、集団で歩いていないと見落としてしまうところでした。
岡山城下町の入り口にあった惣門跡を振り返って撮影しました。写真よりも右に、案内板がありました。惣門の内側には番所があり、午後8時頃から翌日の午前4時ぐらいまでは閉じられていたそうです。この一つ南の通りは、御堂(みどう)町と呼ばれていました。宇喜多氏が城下町の建設を始めた頃、それ以前榎の馬場にあった蓮昌寺がこの地に移ってきました。その後、小早川秀秋が入城したとき、再度田町に移ることになりましたが、地名だけは残っていたようです。
総門跡で岡山城下町を出て、大坂方面に向かう道を進みます。すぐに通りを斜めに横断して進みます。
すぐに、右側に、両備バスの岡山営業所がありました。
その手前の左側に、緩やかにカーブした道があります。後楽園と西大寺を結んでいた西大寺鉄道(「軽便鉄道=けいべんてつどう」と呼ばれていました)の線路跡です。後楽園駅を出て、路地の向こう側からこちらに向かって進んで来た西大寺行きの軽便鉄道は、両備バスの岡山営業所にあったかつての「森下駅」に入って行きました。
旧街道の右側です。軽便鉄道は、この道路の跡をゆるやかに左にカーブして、この先の車庫があるあたりにあった森下駅に入っていっていました。明治44(1911)年12月、西大寺から工事が始まり12月にはここ森下駅まで開通しました。昭和37(1962)年に廃止され、森下駅は後に両備バスの営業所になったそうです。
さらに、先に進みます。県道原尾島・番町線を横断します。旧山陽道は、右側の狭い道を進んで行きます。
その先にあった駐車場の案内には「街道筋」の名が。いかにも旧街道らしい光景です。
旧街道の右側にあった龍翔寺跡。この地域が上道郡宇野村といわれた頃、明治22(1889)年から昭和6(1931)年まで、旧宇野村役場が設置されていました。山門のみが残っており中には寺院の名残はまったく残っていませんでした。
この道は、百間川に向かって行きますが、現在は土手で行き止まりになっています。ここを、右に曲がり下流に進み、旧国道2号線と交差する手前に県営住宅がありますが、ここはかつて競馬場があったところです。この日は、ここで左に曲がり迂回して百間川を渡ります。
写真は百間川です。旧街道があったあたりを撮影しました。写真の左は百間川の東岸です。百間川は、江戸時代岡山藩によって整備された放水路で、平素はほとんど水が流れておらず、河川敷には水田が広がっていました。百間川を渡る旅人は歩いて渡っており、切り通しのようにつくられた土手の門から対岸に入っていました。大水が出た時には、門で板を使って仕切り、集落に水が入ってくるのを防いでいました。この施設を陸閘(りっこう)と呼んでいました。3,40年前、私はこの近くにあった職場で働いていましたが、当時は陸閘がまだ残っていました。
百間川の東岸です。このあたりは「二本松」と呼ばれているところです。東岸の土手上に2本の大きな松が生えていました。一里塚だったといわれており、昭和の初めまで茶屋も残っていたようです。昭和9(1934)年の室戸台風の大水で流されたといわれています。
この写真は、上の写真の交差点から右の方を撮影したものです。道路の先の右側にかつて陸閘がありました。大坂方面に向かう旧街道は手前に向かっておりました。交差点で右折して東に向かっていました。
二本松のバス停付近で右にカーブして、東に向かいます。タクシーの岡山交通旭東営業所です。ここが、軽便鉄道の藤原駅があったところです。
岡山交通旭東営業所の車庫です。線路跡に沿って車庫もゆるやかにカーブしていました。
その先で県道原・原尾島線を渡ります。ここからは、ひたすら歩く旅になりました。地元の人が「旧国道」(平行して南を走っている道が国道2号線だったときにこう呼ばれていましたが、現在は国道2号線がさらに南を走っていますので、正確には「旧旧国道」なのかもしれません)と呼ぶ旧山陽道を東に向かって歩きます。
藤原から高屋、兼基、乙多見を経て30分ほどで、右側に岡山長岡郵便局が見えてきます。その手前に道標がありました。
写真は、左(北)に折れてJR東岡山駅に向かう道です。右(南)方向に向かう道は、県道九蟠・東岡山停車場線の九蟠方面に行く道です。道標は明治38(1905)年に建てられたものです。「財田村大字東神下一厘堂吉田兼五郎」が建てたと記されていました。道標の左の面には「神戸 大坂 京 と 岡山 玉島」を案内しています。右の面には「長岡駅 西大寺観音院」を案内していました。「長岡駅」は、現在のJR東岡山駅のことです。明治44(1911)年、西大寺軽便鉄道の長岡駅が設置されました。現在の「東岡山駅」になったのは、昭和36(1961)年のことでした。
さらにさらに進んでいきます。やがて張り出してきた山の麓を歩きます。
新幹線のガードをくぐります。このあたりから、工場も住宅もとぎれて田園風景が続くようになります。
さらに歩き続けます。左に岡山市立古都小学校が見えました。さらに歩きます。
山の南麓を歩きます。12時40分頃、百間川の西岸を出発してから、約1時間30分。藤井宿の入り口にある素盞鳴(すさのお)神社に着きました。石灯籠には、天保2(1831)年の銘がありました。
幕末、尊王攘夷運動が高まる中、元治元(1864)年、幕府は長州征伐を断行します。岡山藩では、長州征伐のために西に向かう各藩の部隊が岡山城下を通過するのを防ぐため、ここから宿奥、奥矢津、牟佐を経由して旭川を渡るコースを7月15日から通過させることにしました。大坂方面から、写真の右側にやってきた部隊は神社の脇を写真の奥(北)に向かって新往来を進んでいました。
雨のせいもあってか、静かな藤井宿。しかし、家並みにはかつての雰囲気を感じることができます。しばらく進むと、左側に本陣安井家の土塀が見えました。
安井本陣は、寛永(1624~1644)年間、岡山藩主池田光政によって、藤井に在住していた安井庄兵衛の邸宅を本陣にあてて設けられました。今にも崩れそうな土塀です。小さな壕も残っていました。藤井宿は、岡山から東に向かう最初の休泊地でした。本陣は、明治になって解体されたようです。
かつて、藤井宿を示す写真にはいつもこの門が写っていましたが、今は、広い庭も更地になっていて、どなたも住んでおられないような印象でした。中には入れませんでしたが、明治天皇が立ち寄ったことを記念する石碑(犬養毅の揮毫による)が庭に残っているそうです。
少し東に進みます。旧山陽道藤井宿は賑わいを増し、元禄(1688~1704)年間、もう一つ本陣(西崎家)が設置されました。安井本陣の向かい側の東寄りにあったので、「東本陣」と呼ばれました。従来の安井本陣は、西本陣と呼ばれるようになりました。
東本陣跡があったところを東側から撮影しました。もちろん当時の建物は残っていません。藤井宿は、建物はほとんど建て替わっていましたが、家並みの雰囲気はなかなかのものでした。
さらに東に向かいます。鉄の産出に由来する鉄(くろがね)の地に入ります。四つ辻に石碑が残っていました。「安国寺経塔」と呼ばれている碑です。安国寺は南北朝時代に足利尊氏、直義兄弟が戦没者の供養のため全国に建てた寺院です。備前安国寺は、高師直(こうのもろなお・尊氏の側近)の家臣薬師寺公義が自分の居城を利用して設立したといわれています。その後、応仁の乱後の戦乱で、明応(1492~1501)年間に焼失しました。その後、江戸時代の初期の高僧、眠室宗安禅師が再建しました。この四つ辻を山に向かって登った中腹に、その跡地が残っています。
経塔のある四つ辻に常夜灯が残っています。天保10(1839)年3月の銘がありました。「大坂につながる唯一の道」(参加者)は、ここからさらに東に向かっていました。ここで、一応の終着点。JR上道駅に向かうことにしました。
この日は、雨の中、岡山城下町の西の入り口である万町惣門から東に向かい、最初の宿場である藤井宿まで、約14km(参加者のお話しでは16kmとも)を4時間半ぐらいかけて歩きました。岡山城下町の範囲と藤井宿を除くと、単調な道をひたすら先をめざす旅でした。江戸時代の旅も多分そうだったのだろうと思わせるような4時間半でした。