トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

多度津街道を歩く(2) 善通寺に向かって

2018年07月20日 | 日記
前回は、多度津から金毘羅宮をめざす参拝客が歩いた多度津街道を、多度津本町通りや鶴橋を経て、多度津中学校のあたりまで歩きました(「多度津街道を歩く(1) 多度津の町並み」2018年6月26日の日記)。

多度津中学校の先にあったJR予讃線の中学踏切です。この日は、前回に引き続き、多度津町立資料館と善通寺市立郷土館でいただいた資料を手に、多度津街道を善通寺まで歩くことにしていました。

善通寺市立郷土館でいただいたルートマップです。マップの左側の太線が多度津街道のルートを表しています。多度津街道の右側の太線は、多度津港に陸揚げされた魚を運搬するための道(「魚街道」などと呼ばれています)を表しています。また、多度津街道の左側を並行して走る道路がありますが、琴平参宮電鉄多度津線(多度津桟橋通駅~善通寺赤門前駅間)の線路跡に整備された県道212号(多度津・善通寺線)を表しています。マップの左隅の上から左下(南西)に向かって進んでいるのがJR予讃線で、多度津街道と交わるとところに「中学踏切」があります。多度津街道は、この踏切から、南にまっすぐに延びていました。

ぎらぎらと照りつける日射しの中をゆっくりと20分ほど歩くと、旧街道の左側に常夜灯(金毘羅灯籠)がありました。「庄の灯籠」と呼ばれている常夜灯です。

庄の灯籠は宝珠の部分が個性的なつくりになっています。「文化14(1817)年丁丑7月吉日」と刻まれていました。多度津資料館でいただいた資料には、「一対の灯籠で、もう一つは八尺荒神社にある」と書かれていました。何しろ、暑さが半端ないので、八尺荒神社が気になりましたが、先に進むことにしました。

庄の地域は住宅地になっています。幅4メートルぐらいの旧街道が続いています。

「庄の灯籠」から20分ぐらい歩くと、三井(みい)の集落に入ります。農村の雰囲気が残る家並みになりました。この先の四つ角を左折しました。

前方、右側に自然石でつくられた常夜灯が見えました。左側に三井八幡宮が鎮座しています。鳥居の脇にあった説明板には「平安時代後期の延久5(1072)年、多度津にある道隆寺(現・四国八十八ヶ所霊場77番札所)の祐善が近在の五ヶ所に八幡宮をお迎えし社をつくった。三井八幡宮もその一つであると伝えられている」と書かれていました。また、「多度津からの金毘羅街道が、古くからの伊予街道とこの神社の馬場先で交差していた」(多度津町教育委員会)そうです。そのため、昭和51(1976)年3月31日に、多度津町の史跡に指定されています。

鳥居の前から見た三井八幡宮です。長い参道が続いています。多度津街道には、丸亀街道(丸亀~金比羅宮)と同じように、1丁(約108メートル)ごとに丁石が設置されていました。いただいた資料によれば「三井の町内には、4つの丁石(22丁石・24丁石・27丁石・28丁石)があり、これらの丁石から推測すると、丁石の起点は船番所があったところ(現・多度津商工会議所)付近だったと考えられる」そうです。中には、民家の敷地内にある丁石もあるとのことでしたが、どこにあるのか、見つけることはできませんでした。

多度津街道に戻ります。ルートマップでは、旧街道はこの集落を抜けた先で、左にカーブしているようです。

資料をいただいた善通寺市立郷土館では、「斜めに進む道の分岐点で左折するように」と教えていただきました。この先を左折します。

このあたりは、仲多度郡多度津町と善通寺市の境界になっていますが、境界線は入り組んでいるようです。まっすぐ進むとその先でため池の脇を進む道になりますが、旧街道は、住宅の前を右折して南に向かっていました。

三井から先のルートマップでは、ここからまっすぐ南に進んでいたようです。

両側に水田が広がる田園風景の中を進んでいきます。永井地区に入りました。「金毘羅詣り」は、江戸時代後期の文化文政期(1804年~1829年)から流行が始まったといわれています。 天保9(1838)年に多度津藩が多度津湛甫(たんぽ・港)を整備してからは、多度津に上陸し、多度津街道を利用する参詣客が増えていったそうです。江戸時代の参詣客も、この季節には美しい田園風景を楽しんでいたことでしょう。

左側にある「ケアハウス かがや木」の建物を過ぎると、愛媛県に向かって延びる国道11号を渡ることになります。

国道11号を渡ります。写真は、松山・観音寺方面の光景です。画面の右に、多度津町内のJR予讃線中学踏切で見えた天霧山が、少し異なった姿で写り込んでいます。

国道11号を渡り、左側にある西山生々堂病院を過ぎると小さい交差点に入ります。いただいた資料に「永井の目印」と書かれているところでした。前の左右(東西)の通りはかつての伊予街道、高松城下から伊予に向かう街道でした。多度津街道と伊予街道が交わる交差点です。通ってきた三井の八幡宮にあった「案内」に、「多度津からの金毘羅街道が、古くからの伊予街道とこの先の神社の馬場先で交差していた」と書かれていたのを思い出しました。

交差点の先から歩いてきた国道11号方面を撮影しました。左右の円形の石柱は、「永井の鳥居」の柱基部のようです。右側の柱基部には「天下泰平」と刻まれているのが見えます。左の柱基部には「中村の發起施主」として、「松嶋屋惣兵衛 米屋喜三右衛門 福山屋平右衛門 湊屋儀助」など多くの名前が周囲に残っています。地元、中村の人が寄進した鳥居だったようです。お近くの人にお聞きすると「地震で倒れた」とのこと。昭和21(1946)年四国・中国地方に大きな被害をもたらした南海地震のときに倒壊したようです。地元の人にとっては、とりわけ残念な出来事だったと思います。

進行方向の左手前にあった金毘羅灯籠です。上部が欠けているようです。その隣の石柱に刻まれている文字は読むことができませんでした。丁石でしょうか。多度津資料館でいただいた丁石の配置図によれば、この地は「多度津から38丁」というところになるはずです。38丁石が置かれていた正確な位置は、この交差点を左折して少し進んだあたりだったようです。隣は先ほど「天下泰平」と刻まれていた「永井の鳥居」の柱基部です。こちら側には「左 こん」と刻まれています。「こんぴら」の下の部分が埋もれています。道標にもなっていたようです。

これは、交差点の向こうの右側にあった道標です。「左 金ぴら道」「右 多ど津道」、「弘化2(1845)年6月吉日」と刻まれています。向かいにあった金毘羅灯籠には「右 多ど津道」「文化7(1810)年12月」とありました。

永井の目印から先のルートです。ここから左折して進み、その先で右折して善通寺の中心部に向かっていたようです。地元の人に確認すると「お詣りの人は、いろいろだよ。ここで左折しないでまっすぐ進んでいた人もいたよ」とのこと。その通りだと思います。参詣客は「多度津街道を通らなければならない」ということはありませんから・・。大回りしても大丈夫。見たいものがあれば迂回しても大丈夫ですよね。

この交差点を左折します。かつての伊予街道を高松方面に向かって歩きます。地元の人のお話では「現在の道ができるまでは、この通りが国道11号だった」とのこと。建て替えたお宅もありましたが、広い敷地に建つ豪壮なお宅もかなり残っていました。この道をまっすぐ進むとJR金蔵寺駅、さらに四国八十八ヶ所霊場の76番札所金倉寺(こんぞうじ)にも行くことができます。

10分ほどで、広い交差点に出ました。向こう側の民家の敷地の中に大きな道標がありました。

「はし久ら道」とあります。左側面には「往来安全」。庭木に覆われていてそれ以上はわかりませんでした。いただいた資料には「下吉田の道標」と書かれていました。「歌碑と道標を兼ねた灯籠(破損)がある」と資料には書かれていましたが、見つけることはできませんでした。ルートマップでは、多度津街道は、ここで右折してまっすぐ善通寺市内に向かっていたようです。

右折して拡幅された広い通りを南に向かいます。前方に高松自動車道の高架が見えました。ますます強くなった日射しの中をひたすら歩きます。

高松自動車道の下をくぐると、右側に中村墓地がありました。その先から、道路の両側に街路樹がある通りになりました。暑さが少し和らいだように感じました。

進行方向の左側に石柱がありました。四国八十八ヶ所霊場を巡る人のための「へんろ道」を示す石柱でした。

「へんろミち」以外は、読むことができませんでした。

その先で、香川県道212号と合流しました。冒頭にも書きましたが、県道212号は、琴平参宮電鉄の線路跡を道路に転換した道でした。金毘羅参詣も、明治時代になってからは、列車による参詣が多くなりました。最盛期には、現在のJR土讃線、高松からの参詣客を輸送した琴平電鉄、坂出からの参詣客を輸送した琴平急行電鉄、丸亀・坂出・多度津からの参詣客を輸送した琴平参宮電鉄がしのぎを削っていました。琴平参宮電鉄は、丸亀線(丸亀通町~善通寺赤門前・軌道線)、坂出線(坂出駅前~丸亀通町・鉄道線)、琴平線(善通寺赤門前~琴参琴平・軌道線)と多度津線(多度津桟橋通~善通寺赤門前・鉄道線)の4路線を有し、路面電車型の車両で、坂出・丸亀・多度津からの参詣客を琴参琴平駅(現在の琴平温泉琴参閣のところにありました)まで輸送していました。このような輸送体制が完成したのは、昭和3(1928)年のことでした。その後、琴平急行電鉄(琴急琴平駅は現在の琴平郵便局のところにありました)を合併しましたが、モータリゼーションの進展により、昭和38(1963)年、鉄道線・軌道線の全線を廃止しました。

広々とした聖母幼稚園を左側に見ながら歩いていきます。善通寺グランドホテルの前に交通標識がありました。この先、右側に進めば弘法大師空海の誕生地で四国八十八ヶ所霊場75番札所善通寺に、左側に進めばJR善通寺駅に行くことができます。

この写真は振り返って撮影しました。多度津街道の進行方向の右側に2階建ての建物がありました。これは、琴平参宮電鉄の善通寺赤門前駅の駅舎だった建物です。ここで下車した参詣客は、駅舎跡の手前の道を左(西)方向に進んで善通寺赤門に向かっていました。郷土館で、「手前の5階建ての建物があるところには当時本屋があり、道路に面したところで切符を販売していた」と、教えていただきました。

歩道を覆う庇の着いた本通り商店街を進んでいきます。この日は木曜日でしたが、シャッターを下ろしたままのお店や、陳列ケースに商品を置いていないお店もあり、営業しているお店はほとんどありませんでした。休業日だったのでしょうか。右側にあった百十四銀行の先の交差点の向こうには市営駐車場がありました。

市営駐車場の向かい、本通り商店街の先にあった善通寺簡易裁判所です。多度津街道はここで途切れます。この先は裁判所やその先の四国学院大学の敷地内を通っていたようです。

酷暑の中を、JR予讃線の中学踏切から、多度津街道に沿って善通寺まで歩いてきました。
街道の脇に残る鳥居や金比羅灯籠、道標などを巡る旅になりました。
次回は、四国学院大学の先、生野(いかの)本町二丁目から仲多度郡琴平町の金刀比羅神社の参道まで歩いてみようと思っています。





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1 コメント

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Unknown (サイモン)
2018-08-05 22:10:24
こんばんは☆

昨日、多度津港で花火大会があり、
この道を使いました。
今まで使ったことが一度も無かった道ながら、
楽しく拝見出来ました。

偶然とは言え、不思議です、
ちなみに現在、高知からのかえりで、箸蔵駅で
写真を撮っています
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