トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

朝鮮通信使の寄港地、牛窓の町並み(1)

2019年03月14日 | 日記

海岸に白い船が並ぶ、岡山県瀬戸内市牛窓(うしまど)町です。”日本のエーゲ海”と称し、観光業によって、町の活性化を図っている町です。牛窓は、古くから内海航路の風待ち、潮待ちの港として知られており、江戸時代には、北前船の寄港地となり、様々な物資の集散地として栄えました。また、将軍の代替わりに来日し、江戸に向かった朝鮮通信使の寄港地としても知られていました。この日は、岡山県東部の町、牛窓町を訪ねました。

JR赤穂線の邑久駅から牛窓行きの東備バスに乗り継いで、牛窓に着きました。バスの終点の一つ前「本蓮寺下バス停」で降車しました。バス停は牛窓海遊文化館(以下「海遊文化館」)のすぐ前にありました。青い空に映える真っ白な建物の海遊文化館は、朝鮮通信使との交流資料、そして船型のだんじりと和船を展示する資料館になっています。もともとは、西大寺警察署牛窓分署として、明治20(1887)年に建設されました。その後、名称は変更されましたが、昭和52(1977)年まで、警察署として、この地の治安維持のために使われていました。玄関ポーチには、今も金色の警察のマークが残っています。建物は、平成10(2008)年に国の登録有形文化財に登録されています。

海遊文化館の裏の丘の上に建つ本蓮寺の三重塔が見えました。元禄3(1690)年の建立(棟札による)で、岡山県の重要文化財に指定されています。朝鮮通信使は、永和元(1375)年に足利幕府3代将軍、足利義満が派遣した「日本国王使」に対し、当時の朝鮮の高麗王朝から「信(よしみ)を通わす使者」として派遣されたことに始まるといわれています。豊臣秀吉の文禄・慶長の役によって、両国の国交は断絶しましたが、江戸時代になって再開されました。一般には「朝鮮通信使」といえば、江戸時代の李氏朝鮮からの使者を指すことが多いようです。外国との交流が制限されていた江戸時代には、朝鮮は琉球王国とともに正式な国交のある国とされていました。

海に面して建つリゾートホテルの”リマーニ”の前まで、バスで来た道を引き返します。

ホテルリマーニの前に、かもぼこ屋の中光商店があります。その前から見た光景です。右側の海岸沿いの通りは、引き返して来たバス道。左側に道幅のやや狭い通りがありますが、この道が、江戸時代の寛文から延宝年間にかけての時代(1661年~1680年)に、岡山藩によって整備された牛窓往来で、岡山城下町から商業の中心地牛窓まで、6里28町(約27km)を結んでいました。今は、この通りは「しおまち唐琴通り(以下「唐琴通り」)」と呼ばれています。海遊文化館でいただいたパンフには「牛窓町の東部に位置する町並みで、港町として栄えた江戸時代から昭和30年頃の面影を多く残しています」と書かれていました。関町までは、江戸時代の道幅のまま残っているそうです。

パンフに載っていたマップです。見えにくいのですが、緑で示された通りが唐琴通りです。マップの左(西)から右(東)に向かって歩きます。

唐琴通りに入ると、左側に「立正安国 王佛冥合」と刻まれた門があります。本蓮寺の参道です。その先に石段と山門が見えます。本蓮寺は山号は経王山。創建は正平2(1347)年。大覚大僧正(京都妙顕寺の住職)が、法華経信仰による仏堂、法華堂を創建したときに始まるといわれています。備前国で最初に建立された法華宗の寺院だともいわれています。

本堂に上っていく石段の途中から見た本蓮寺の書院(謁見の間)です。朝鮮通信使が宿泊したところだそうです。海遊文化館に展示されていた資料によれば、朝鮮通信使は、江戸時代を通して12回、来日し江戸をめざしていました。第3回(寛永元(1624)年来日)から、第6回(明暦元(1655)年来日)までの4回は、朝鮮通信使の中心的な役割を担う、正使・副使・従事官の三使が本蓮寺に宿泊していました。岡山藩が接待所として設けた御茶屋が完成した、第7回(天和2(1682)年来日)以降は御茶屋に宿泊するようになりました。本蓮寺境内は、朝鮮通信使の宿泊場所という役割を担っていた場所ということで、平成6(1994)年、国の史跡に指定されました。

書院の入口です。本蓮寺に宿泊した朝鮮通信使の人たちは、訪ねてくる地元の人たちと筆談で交流をしていたということです。また、本蓮寺には、朝鮮通信使が作った詩も残されており、寛永20(1643)年の第5回朝鮮通信使として宿泊した従事官の詩のレプリカが、書院に展示されていました。「寺は古さびて 僧侶もわずか (中略) 静寂そのもの 投宿した旅人は 万感こもごも 眠らずに夜半を過ぎ、蚊のうなり声だけが勢いよく やかましい」。直筆は、岡山県立博物館で保存されているそうです。 

山門を入って右に進み、本堂や三重塔の並ぶ高台に上る石段に向かいます。朝鮮通信使は、どんな旅をしていたのでしょうか。第9代将軍の位に就いた徳川家重の就任祝いのために来日した第10回朝鮮通信使(正使・副使・従事官以下475人)の一行は、寛延元(1748)年に、李氏朝鮮の都、漢陽を出発しました。漢陽から日本海側の港町釜山まで2ヶ月をかけて移動。釜山を2月16日に出発し、対馬の鰐浦に上陸、厳原から壱岐に向かいます。その後、現在の山口県の赤間関(下関)、西口浦(笠戸)、そして、鎌苅、竹原、忠海、鞆浦を経て、4月16日に日比(岡山県玉野市)に着いています。4月17日に日比を出た一行は、牛窓にその日のうちに到着しています。牛窓を出発したのは4月19日。室津、明石、兵庫を経て、大坂に上陸してからは、陸路、江戸をめざして進みました。そして、6月に将軍家重に謁見したといわれています。

そして、江戸からの帰帆の途中、牛窓に着いたのは7月9日。このときは、休憩をした後、その日のうちに牛窓を離れています。漢陽から出た朝鮮通信使は、江戸までを往復するのに最長で10ヶ月程度かかる、長い長い旅をしていたようです。石段を上って中門をくぐった左側に本堂がありました。明応元(1492)年の再建で、「室町調の端正な美しさを見せる」として、国の重要文化財に指定されています。また、くぐってきた中門も、本堂と同じ明応元年頃の建立とされ、国の重要文化財に指定されています。

写真は、海遊文化館の入口付近に展示されていた朝鮮通信使の服装です(許可を得て撮影しました)。「説明」には、「李氏朝鮮の上位の文官は、2羽の鶴を刺繍した衣服を着用し、下位の文官は1羽の鶴のみのものを、武官は虎を刺繍した衣服を着用していた」と書かれています。

中門から入った左側に本堂、正面に祖師堂がありました。本堂の並び、祖師堂の脇に、番神堂が設けられていました。説明では「法華経を守護する三十番神を祀った神堂」だそうです。番神堂に入る門が左に傾いています。一緒に見学していた団体の人も見入っておられました。

傾いた門を入ってすぐにわかりました。門の脇に、大きな楠の切り株が見えました。今は切られていましたが、この楠の根が門の片側を押し上げたため傾いてしまったようです。

江戸時代の中期につくられた覆屋(おおいや)の中に、写真の手前から東祠(とうし)、中祠(ちゅうし)、西祠(さいし)の三祠が祀られています。この三祠は室町時代後期の建築様式の祠だそうです。番神堂も、国の重要文化財に指定されています。

享保4(1719)年の第9回の朝鮮通信使では、通信使一行が通信使479人など総勢2,500人と65艘の船で到着しました。岡山藩からの役人542人と民間から徴発された252人が接待にあたりました。岡山藩から動員された船は合計943艘、それに関わる海民は3,855人。宿泊には、約200軒の町屋も提供されました。特に、通信使一行の宿に使われた町家に住む人は、来日から帰帆まで、数ヶ月に渡って自分の家に立ち寄ることができなかったといわれています。食料は1日分が米8石2斗余、酒2石7斗余、タバコ7貫余。これを6日分(帰帆時は5日分)準備したそうです。牛窓での滞在は1泊だけでしたが、岡山藩の負担は約3000両(現在の貨幣価値では3億円)だったといわれています。藩も町屋の人々も、接待する側の負担はとても重いものだったようです。

日韓両国に残る朝鮮通信使に関する文書や書物など333点は、平成29(2017)年10月31日(日本時間)、ユネスコの世界記憶遺産(「世界の記憶」)に登録されています。 国の史跡や重要文化財が並ぶ本蓮寺から、唐琴通りに下りて来ました。ここからは、江戸時代から昭和30年頃までの面影を残す通りを歩きます。海遊文化館の白い建物が右側に見えました。

海遊文化館の先を右に進みバス道に出ます。港の入口に設けられた一文字波止(いちもんじはと・パンフでは「波戸」を使っています)が見えました。元禄8(1695)年、当時の藩主、池田綱政が郡代の津田永忠に命じて築造させた、長さ373間(678m)高さ1間半(2.7m)の文字通りまっすぐで堅牢な波止めでした。近くの犬島の花崗岩を使って、わずか10ヶ月で完成させたといわれています。岡山藩の新田開発や土木事業に大きな功績を残した津田永忠は、自ら牛窓で朝鮮通信使の接待にあたったことがあり、海からの強い風を防ぐため、波止の必要性を強く感じており、綱政に築造を進言していたのだそうです。一文字波止が築造されてからは、牛窓には北前船も寄港するようになり、物資の集散地として発展して行きました。津田永忠が築造した波止は、平成4(1992)年から始まった改修工事の結果、現在のような姿に変わっています。

唐琴通りに戻り、先に進みます。左側に、白い洋風建築がありました。昭和10(1935)年の建築で、国の登録有形文化財に登録されています。昭和12(1937)年から、材木問屋を営んでいた人が特定郵便局を始めたそうです。現在は、”喫茶 牛転”になっています。「牛転」は「うしまろび」と読むそうです。伝承によれば、神功皇后が三韓征伐の途中、この地で、頭が8つある大牛の怪獣「塵輪鬼(じんりんき)」に襲われ、弓で射殺したそうです。その後、皇后一行が新羅からの帰途、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼になって再度襲って来たとき、住吉明神が牛鬼の角をつかんで投げ倒したそうです。このような経緯で、この場所を「牛転(うしまろび)」といい、それが訛って牛窓になったということです。

その先、右側にあった大きな土蔵。上野家の「土倉」とパンフには書かれています。すぐ脇にある商家をしのぐ、3階建てといってもいい高さのある蔵でした。

土塀が続く道になりました。土塀の先に、材木問屋だった松屋の分家の長屋門がありました。江戸時代には、庶民は長屋門を建てることを禁じられていたため、明治になってから建てられたものです。入口には、屋久杉の柾目板が使われているそうです。門に架かっているのは「牛王本蓮寺寶印」で、新年にお寺から授与された護符だそうです。江戸時代には、沖合にある小豆島にキリシタンの拠点があったそうで、キリシタンではないという証明のために授与されていたともいわれています。今は魔除けのために使われているそうです。

長屋門の向かいにあった「牛窓まちかど交流プラザ 風まち亭」です。

岡崎家の長屋門です。江戸時代から材木問屋を営み、木造船の船材などを手広く扱っていた旧松屋本家の建物でした。明治時代になってから武家屋敷構えで建てられたそうです。

「見返りの塔」の案内です。「ここから見た本蓮寺三重塔がもっとも美しい」と書かれていました。

歩いてきた唐琴通りを振り返って見ました。商家の屋根の上に、本蓮寺の三重塔が見えました。地元の人のいわれるとおり美しい姿でした。

その先に、「潮風志る古」(しおかぜしるこ)と書かれた金属の看板がありました。写真は正面から撮影したそのお宅です。木造3階建ての建物ですが、今はどなたも居住しておられないようです。窓には、映画のポスターが貼り付けられています。パンフに「カンゾー先生 ロケ地跡」と書かれているところです。「映画カンゾー先生」は、患者を「肝臓炎」としか診断しないことからカンゾー先生と呼ばれるようになった医師と、彼を取り巻く人々を描いた喜劇映画で、カンヌ国際映画祭の特別招待作品。主人公には、今村昌平監督の父親の姿が投影されているといわれた作品でした。

前にあった、ミナトシネマのポスターと、石碑です。石碑には「映画 カンゾー先生 牛窓ロケ地 1997年 今村昌平監督作品」とありました。関町に入りました。通りの正面は、中庭と呼ばれている広場になっています。

ロケ地跡から、天神社に向かって上ります。天神社からの「眺めがいいよ」と聞いていたからです。前方の右側に、門柱がありました。

門柱があるところは「旧牛窓町役場跡」でした。現在は、関町コミュニティハウスになっています。

左側の建物の壁にあった看板です。古くから木造船の船大工の人々が居住していた牛窓らしい看板です。「和洋船舶用品店 木崎商店」とありました。

石段を上りきると、菅原道真を祀る天神社に着きます。扁額には「天満宮」と書かれています。九州に流される途中、この山に登り、遠く讃岐の山々を見て涙を流したと伝えられ、地元の人々が祠を建ててお祀りしてきたものです。約250年前に大宰府からご神体を勧請したそうです。拝殿の裏には、前方後円墳の牛窓天神古墳(全長85m)があります。牛窓にある5基の前方後円墳で最初に築造されたものだそうです。

菅原道真の歌碑が設置されているあたりから見た牛窓沖です。目の前には前島(写っていません)。写真の左側の「黒島」、その右が「中の小島」、その右が「端の小島」です。写真からは見えませんが、端の小島の右側に、「百尋魚礁」があるそうです。牛窓と前島を結ぶ前島フェリーの”第7からこと”が牛窓港に入港中です。  先に、牛窓の地名は「うしまろび」に由来するとして、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼になって襲ってきたとき、住吉明神が牛鬼を投げ倒したことに由来すると書きましたが、その時に滅びた牛鬼の身体が、牛窓の島になったという伝説も残っています。頭の部分が黄島に、胴体の前の部分が前島に、胴体の後ろの部分が青島に、お尻の部分が黒島になったという伝説です。

江戸時代に朝鮮通信使が寄港した牛窓の町を、本蓮寺から関町まで、「しおまち唐琴通り」に沿って歩いて来ました。
次回は、関町から東町まで歩くことにしています。







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