JR山陰本線の久谷(くたに)駅です。牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”の151位(2018年)にランクインしています。兵庫県北西部のJR山陰線では4つの駅がランクインしています。鳥取駅側から居組(いぐみ)駅(119位)、久谷駅(115位)、餘部(あまるべ)駅(125位)、鎧(よろい)駅(159位)の4つの駅です。この中で、餘部駅は、昨年訪ねて来ました(「JR山陰本線の”秘境駅”、餘部駅」2017年1月14日の日記)。
これはJR居組駅の駅舎です。建築から100年以上経過した木造駅舎の建て替えに向けた動きが始まるということで、先日訪ねてきました(「”秘境駅”の木造駅舎がなくなる!JR居組駅」2018年11月7日の日記)。
鎧駅の駅舎です。この駅も、先日訪ねて来ました。美しい風景のため、映画のロケ地としても知られている駅でした(「美しい風景とインクライン跡に会える”秘境駅”、JR鎧駅」2018年11月5日の日記)。
この日は、残っているJR久谷駅を訪ねるため、鳥取駅に向かいました。キハ47系車両の2両編成、ワンマン運転の気動車に乗車しました。
鳥取駅から1時間余、列車は進行方向右側にある1面1線のホームに入ります。久谷駅に到着しました。兵庫駅北西部の4つの秘境駅のうち、餘部駅、鎧駅は美しい海岸の風景の中にある駅でしたが、久谷駅は、居組駅と同じような雰囲気をもつ山間の駅でした。他に乗降客はおらず、すぐに、列車は、次の餘部駅をめざし、ホームの先にある桃観トンネルに向かって出発して行きました。
久谷駅は、兵庫県北西部の美方郡新温泉町久谷にあります。浜坂駅から6.1km、次の餘部駅まで4.6kmのところにあります。久谷駅は明治45(1912)年3月1日、国有鉄道山陰本線の香住(かすみ)駅・浜坂駅間が延伸開業し、京都駅と出雲今市駅(現出雲市駅)の間が全通したときに、開業しました。
到着したホームにあった待合室です。ベンチが置いてあるだけでしたが、改修されてから余り時間が経過していないような印象を受けました。
待合室に掲示されていることが多い時刻表と運賃表は、ここではホームに設置されていました。久谷駅は、他の3つの秘境駅とともに、平成24(2012)年3月17日のダイヤ改正から、一部列車が通過する駅になっています。
これは、餘部駅側から浜坂駅方向に向かって撮影したものです。下車したホームの向かいに駅舎が見えました。
現在は1面1線の棒状駅になっていますが、形状からわかるように、かつては2面2線の駅でした。駅舎寄りの1番線に餘部駅方面行きの列車が、現在使用されている2番線に浜坂方面行きの列車が停車していました。平成20(2008)年に2番線ホームは使用停止となり、1番線だけが使われるようになりました。
その後、平成24(2012)年に一部列車が通過するようになって、棒状化の工事が行われ、使用停止になっていた2番線ホームをすべての列車が使用するようになりました。現在では、使用されなくなった1番線のレールは撤去されています。
写真はホームから見た駅舎です。ドアも窓も閉鎖され、駅舎というより倉庫といった雰囲気です。現在の駅舎は、昭和57(1982)年に、開業以来の木造駅舎に替わって建てられたものです。白い駅舎とホームの上屋を支える白い柱が印象的です。
しかし、今では、駅舎側ホームは駅名標も撤去され、駅前の広場も使用禁止になっており、駅らしいものは残っていない状況です。 これは、下車したホームの浜坂駅寄りから撮影した駅舎側のホームです。構内踏切の名残のようです。
その近くのホームの側面にあった「停車場中心193K380M」と書かれていました。現在の営業キロ(191.8km)よりやや長いのですが、京都駅からの距離を示しているようです。
久谷駅は標高51.9mの山の中腹に設置されています。到着したホームの裏にはもう一つ山塊が広がっており、集落は、二つの山塊に挟まれた谷筋に並んでいます。”秘境駅ランキング”の主宰者、牛山氏の評価では、久谷駅は秘境度2ポイント(P)、雰囲気1P、列車到達難易度9P、外部到達難易度1P、鉄道遺産指数1P(総合14P)となっています。駅が秘境駅の雰囲気をもっていること、列車で訪ねるのに困難ということによって、ランクインしているようです。
こちらは浜坂駅方面です。集落に下りていくことにしました。到着したホームから集落に向かう道は、安全への配慮からか、柵で囲まれています。
下りていく途中にあった墓地の下方に、かなりまとまった集落が見えました。
墓地からさらに下り、左折して進むと集落を抜ける通りにぶつかります。久谷地区には73世帯、人口200人(平成27年)の方が居住されています。
通りを右折して下ります。右側にあった「久谷民俗芸能伝承館」です。
その先の左側に駐在所がありました。左折して進みます。正面に赤い釉薬瓦の立派な住宅があります。
駐在所の先に「但馬久谷菖蒲綱引 重要無形民俗文化財 国指定 記念」と刻まれた石碑がありました。
駐在所付近の橋を渡って、来た道を引き返します。右に向かう道との分岐点に説明板がありました。先ほどの石碑にあった「菖蒲綱引」の説明でした。端午の節句の行事として、江戸時代に始まった「菖蒲綱引」は、屋根に上げた菖蒲よもぎを縫い込んだ三組みの綱(全長40m・直径30cm)を、大人組と子ども組に分かれて7回引き合い、大人組が勝つと豊作になるというものだそうです。「久谷民俗芸能伝承館」も菖蒲綱引にかかわる施設だと思われます。この菖蒲綱引は、「年占いや地区の発展を祈って行われ、日本海沿岸地域に分布している五月節句の綱引行事の典型例」として、平成元(1989)年に、国の「重要無形民俗文化財」に指定されています。
先ほど、駅から下りてきた道との合流点です。このあたりから緩やかな上りになりました。
その先で、国道178号に合流します。正面に久谷八幡神社がありました。応永21(1414)年から現在の地に鎮守している由緒ある神社で「久斗の庄の一の宮」ともいわれています。毎年の例祭日に奉納されるざんざか踊りで知られています。また、本殿脇にはスダジイの古木など貴重な樹木が茂っているそうです。
左側に薬師堂を見ながら坂を上っていきます。
薬師堂付近から、左側の山を見上げると、久谷駅のホームと駅舎が見えました。
国道178号は、その先で、桃観(とうかん)峠を桃観(とうかん)トンネルで抜けて豊岡方面に向かいます。道路標識付近で左折します。久谷駅に到る兵庫県道261号を進みます。
その先にあった久谷踏切です。左側の広場は駐車場。その先は、ホームにつながる道が続いています。そして、右側、餘部駅方面には桃観トンネルがありました。
桃観トンネルです。全長1992m。山陰本線で2番目に長いトンネルです。脇にあった説明には「この先の峠は、『峠を越えれば股(もも)の痛み甚だし』ということで『股(もも)うずき峠』と呼ばれていました。鉄道の建設でいい名を付けようということになり『股(もも)』から『桃見峠』となり、さらに「桃観峠」と名づけられた」と書かれていました。また、ここからは見ることはできませんが、こちら側(西側)の入口は、「馬蹄形で、建設当時の美しい石積みを残している」そうです。桃観トンネルは、明治44(1911)年のトンネル開通当時には全長1841mで、山陰本線の最長トンネルでした。しかも、ここから15.2パーミルの急勾配で標高80mまで上って桃観峠を越えることになっていました。「西側のトンネルの入口には、建設当時の鉄道院総裁、後藤新平の直筆による『萬方惟慶(すべての人がこれを慶ぶ)』と書かれた石額がついています。ちなみに、東側(向こう側)には同じ後藤新平の『惟徳罔小(この徳は小さくない)』という石額がついてい」るそうです。大変な難工事の末に開通した最長トンネルに寄せた、関係者の慶びが表れています。
しかし、運行は大変だったようです。長い急勾配のトンネルの中で、蒸気機関車に牽引された列車が止まると窒息事故につながるとして、上り勾配のトンネル入口の直前にある久谷駅では、十分な蒸気を溜めてからトンネルに挑んでいたそうです。また、全長1841mで開通したトンネルが、現在1992mになっているのは、開通後の大正7(1918)年、山陰本線の沿線で大雨が降ったとき、トンネルの東側を流れる西川が氾濫し、これが桃観トンネルに流れ込み、トンネルの西側の久谷の集落にも大きな被害を与えたため、トンネルの東口を上り勾配にして、50m余り延長して改修したためでした。
このとき、浜坂行きの普通列車がトンネルを抜けて来ました。建設当時、山陰本線の最長トンネルだった桃観トンネルは、その後、昭和8(1933)年に、山口県の須佐(すさ)駅と宇田郷(うだごう)駅間に大刈(おおかり)トンネル(全長2214.7m)が開通したため、現在では山陰本線で2番目に長いトンネルになっています。
久谷踏切を渡って進みます。線路と並行に進み、駅舎跡に向かって行く道になります。写真は、途中にあった唯一の民家です。
広い駅前広場に着きました。駅舎は物置になっていました。久谷踏切に戻りました。
久谷踏切の脇の駐車場です。そこから、現在のホームに向かう通路が設けられています。安全のためでしょう、両側に柵が設けられていました。
餘部駅に始まり、鎧駅、居組駅、そして久谷駅と、兵庫県西北部にあるJR山陰本線の”秘境駅”を訪ねて来ました。
最後に訪ねることになった久谷駅でしたが、最も印象に残ったのは、久谷駅以上に、開通当時、山陰本線の最長トンネルだった桃観トンネルでした。また、久谷地区に住む人たちが守り伝えて来た菖蒲綱引や、八幡神社のざんざか踊りなど、豊かな民俗文化も心に残りました。