トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

北前船の係留杭が残る港、居組漁港を歩く

2018年11月12日 | 日記

波静かな漁港の一角に、石の杭が建っています。これは、江戸時代に、汐待ちのため停泊していた北前船の係留のためにつかわれた杭、係留杭(けいりゅうくい)だといわれています。

兵庫県の西北部、居組漁港を見下ろす魚見台公園から見た係留杭が残っている付近の風景です。中央部に突きだした突堤の向こうに、不動山(左)と亀山(右)が見えます。江戸時代、この二つの山、不動山と亀山の間は船溜まりなっており、二つの山の海面付近に係留杭がつくられていました。

これは、不動山の海岸にある係留杭です。波静かな海岸に残っています。
牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”の119位にランクインしている、”秘境駅”JR居組駅を訪ねた日(「”秘境駅”の木造駅舎がなくなる! JR居組駅」2018年11月11日の日記)、居組駅から居組漁港に向かって歩きました。

”秘境駅”の雰囲気を色濃く残すJR居組駅です。

これは、駅舎内にあった居組集落の「見所・案内図」(以下「案内図」)です。この案内を参考にして、地図の左上の「至JR居組駅」から、居組の集落や居組漁港を歩くことにしました。

居組駅前から右に曲がって下っていきます。すぐに、大阪川にかかる居組橋を渡って、山沿いの道をまっすぐに進んで行きます。

東浜・居組道路のアンダークロスをくぐります。道は、その先で三差路になります。左側に向かって進むと、寺院がありました。

虎嶽山龍雲寺です。慶長元(1596)年に創建された曹洞宗の寺院です。山門前に掲示されていた案内板によれば、「寛政12(1800)年と明治21(1888)年の二度焼失した」そうです。

龍雲寺の本堂です。現在の本堂は「文化11(1814)年に鳥取藩主池田家の菩提寺として再建された興禅寺本堂を、焼失後の明治21(1888)年に移築したもの」(案内板)だそうです。

左側から見た本堂です。鬼瓦の下の懸魚(げぎょ)には、徳川家の家紋の「三つ葉葵」(鳥取藩主池田家が徳川家と姻戚関係にあったため)が見えます。その下の蟇股(かえるまた)には池田家の家紋「揚羽蝶」が彫刻されています。また、かつては、揚羽蝶の家紋が入った鬼瓦も屋根に敷かれていたといわれています。鳥取藩主池田家の菩提寺であったことを示しています。

山門の左側にあった石碑です。「鉄道工事遭難病没追悼碑」(裏面には「明治辛亥年三月建立」)と刻まれていました。「明治辛亥年」は明治44(1911)年、居組駅が開業したのも明治44(1911)年でした。国有鉄道山陰本線の建設工事に従事して、遭難や病気で亡くなられた人々への追悼碑でした。地元の人々の居組駅の開業に対する思いが伝わって来ます。

その先、緩い右カーブがあります。カーブの先で、居組の集落に入ります。

その先、右側に「西谷商店」の看板のあるお店、左側に黒い下見板張りの壁のお宅がありました。その前の四つ角を左折して、海の方に向かって歩きます。

左折した後、すぐに、左側のお宅に、赤いレンガ塀がありました。駅にあった「案内図」には、「明治末期、山陰本線のトンネル工事に従事した人々が、お世話になったお礼として建てたレンガ塀」だと書かれています。

レンガの表面です。案内図によれば、「長手のレンガと小口のレンガが順に積まれるフランス積み」でつくられているそうです。山陰本線の工事から、100年以上が経過した現在も頑丈にそびえています。

レンガ塀のあるお宅から、さらに先に進みます。左右の通りと交差します。まっすぐ通りを越えて進むと、居組漁港や居組サンビーチ(海水浴場)に向かいます。右は、漁港の裏を進む道になります。

左折して、県境を越えて鳥取県に向かう「七坂八峠(ななさかやとうげ)」とよばれるつづら折りの道を進みます。この先にある、居組漁港を見下ろす魚見台展望所をめざして歩きます。

つづら折りの登り坂を歩きます。大漁旗がたなびく一角がありました。幟には「八代龍王大神祭」と書かれていました。八代龍王大神を祀る龍神堂です。この日は祭礼の日だったようです。漁に携わる人々がお堂の中に集まっておられました。お堂の裏から居組漁港を眺めるつもりでしたが、樹木がじゃまをして眺望が今ひとつでした。

展望台のある魚見台公園まで上りました。

海水浴場「居組サンビーチ」の美しい風景が目に入ってきました。

「案内図」には「らくだのこぶのように浮かぶ2つの小島」と書かれています。手前から延びる突堤の先にある不動山(左)と亀山(右)です。居組漁港は、北前線の汐待ちの港として賑わってきたところです。冒頭に書いた係留杭はこの二つの山の間の海岸付近にあります。兵庫県から鳥取県にかけては、このような断層地形がよく見られます。それにしても、箱庭のように美しい風景です。上がってきた甲斐がありました。

来た道を下ります。途中で見た居組の集落です。「居組の地名は『入り組んだ土地』が由来だとも言われ、集落に入ると民家がところ狭しと軒を連ねる」と「案内図」には書かれていました。先ほどレンガの塀から来た道に戻りました。

そこから、左折して漁港の中に入ります。入口にあった「漁港修築記念碑」です。昭和45(1970)年に、それまで、遠浅の砂浜が広がる海水浴場であったところを、漁港に改修しました。

そして、石碑からまっすぐ海に向かったところの大戸の浜に、海水浴場”居組サンビーチ”が開かれました。居組の町は「夏は海水浴、冬は松葉ガニ」で知られて来ました。

居組サンビーチの近くの突堤に停泊していたイカ釣り漁船です。引き返します。

ここが、かつて海水浴場のビーチがあったところにできた漁業協同組合の作業場です。建物の後ろ側を、亀山めざして歩きます。
「案内図」には、「亀山には城跡が残っている」と書かれています。そんな雰囲気を感じる山です。

作業場の建物を越えたところから見た漁港の風景です。不動山が目の前に見えます。「案内図」によれば、「177種以上の植物が自生する」といわれ、「88体の石仏が祀られている」そうです。

海に注ぐ直前の結川(むすぶかわ)に架かる橋を渡って、亀山に向かって進みます。

海の中から設置されたレールが見えました。先日訪ねた、JR鎧駅(「美しい風景とインクラインに会える”秘境駅”JR鎧駅」2018年11月日の日記)にあった「インクラインか?」と思いました。漁船を上に乗せて引き上げる設備なのでしょうか? 

レールの向こう、亀山の麓のあたりまで連なる漁船の近くを歩いて行きます。「立入禁止」の立て札もなかったので、おじゃまにならないように歩かせていただきました。

ここは、亀山付近のようすです。杭だけでなく、平らになった桟橋のようなところもありました。北前船は、江戸時代の寛永年間(1624~1644年)から、日本海沿岸の各地から瀬戸内海を経て大坂に至る海運に就航していました。毎年、7月下旬に蝦夷地を出発し、8~10月にかけて、寄港地で商品の売買をしながら南下し、11月上旬に大坂に着いていたようです。そして、翌年の3月下旬に大坂を出帆し、4~5月に、瀬戸内海から日本海にかけて売買しながら北上し、5月下旬ころ蝦夷地に到着していたようです。

亀山の係留杭があるところから対岸の不動山方面を撮影しました。そこにも、係留杭が残っています。かつては、船溜まりとしてたくさんの北前船が汐待ちをしていました。北前船は、輸送だけをしたのではなく、経由地で商品を売ったり、仕入れたりして、売買をしながら航海を続けていました。大坂に向かう「上り荷」では、肥料になる干鰯などの海産物が主な商品になっていました。北国に向かう「下り荷」は、米、酒、砂糖、塩、たばこ、紙、ろうそくなど多種多様な商品が売買されていたそうです。

結川まで引き返してきました。ここから、居組の集落を歩きます。途中で、女性の方と出会いました。一通りお話したあと、最後に「時間は大丈夫? 駅まで送るよ」、「お腹空いてない? 昼食べていっていいよ!」。「漁村に住んでおられる方は、お互いに助け合うおつきあいだ」とお聞きしたことがあります。「こういうおつきあいを、平素からしておられるのだ。」と思いながら、お礼だけ申し上げてお別れしました。

前方で、道路が大きく右カーブします。この先には、学校再編で廃校になった居組小学校跡。そのグランド脇に、居組の人々の鎮守の神である大歳(おおとし)神社があります。ここは、カーブする手前にあった水門橋です。ここで右折して、再度、居組の集落に入ります。

5mぐらいで福周旅館。その先、左側に西垣商店という看板が掛かったお店がありました。その手前を右折して進みます。

すぐに、もう一つの赤レンガ塀のあるお宅がありました。山陰本線のトンネル工事に従事した人たちが、お世話になった地元の人々へのお礼にと建てたものでした。
  
細い路地の両側に民家が並ぶ入り組んだ通りが続いています。居組の地名のもとになった風景が広がっていました。

”秘境駅”、居組駅から、居組漁港と居組の集落を歩いてきました。居組漁港は、青い空に青い海、箱庭のような風景が広がる美しい町でした。江戸時代を通して行われた、汐待ちをする北前船の人たちとの交流を、今も残る係留杭が伝えてくれています。
また、町の人々が、山陰本線の工事に従事し犠牲になった人たちのために建てた「追悼碑」や、工事に従事した人たちが、お世話になった地元の人々のために建てた「赤レンガの塀」からは、山陰本線の建設を仲立ちとした、人々の豊かな交流のようすもしのぶことができました。