トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

歩いたぞ! 5時間・18キロ、井笠鉄道本線跡地を行く

2011年10月25日 | 日記

岡山県の西部、広島県に近い笠岡市と井原市を結んでいた軽便鉄道がありました。
井笠鉄道(本線)です。
この鉄道が廃止されたのは、昭和46(1971)年のことでした。
今年はちょうど40周年にあたります。

私は、当時、学生でした。
国鉄笠岡駅の構内から、出発していた客車の姿をかすかに覚えています。
先日、「追憶の井笠軽便鉄道跡(本線)ウオーク」というイベントに参加して、
廃線跡を歩いてきました。
笠岡駅前を朝9時に出発して、井原鉄道井原駅に着いたのは午後2時5分でした。
昼食休憩をはさんで5時間、てくてく歩きました。

井笠鉄道を運行していた井原笠岡軽便鉄道が設立されたのは、
明治44(1911)年でした。100周年です。
今年は、井笠鉄道にとって、記念の年になっています。

井笠鉄道の方の先導で歩きました。

笠岡駅前から左の細い道を進んで行くと、左に駐車場があります。
ここが、かつての井笠鉄道笠岡駅でした。
されに進むと、旧線路跡の幅3メートルぐらいの道路に入り、
左側にある威徳寺の石段の前に出ます。

江戸時代の中期、石見銀山のある大森代官所とここ笠岡代官所の代官を
兼ねていた、井戸平左衛門正明の墓地があることろです。
代官をつとめていた頃に起きた享保の大飢饉。
飢えに苦しむ人のために、代官所の蔵米を開放したり、租税の減免をしたり
飢饉に備えてさつまいもの栽培を奨励したり、私財を提供したり・・・
当時の人々が、「芋代官」と呼んで慕った名代官でした。

笠岡中央病院の前が、かつて、最初の駅、旧くじ場駅があったところです。
旧新山駅舎である鉄道博物館に駅標が保存されています。
旧井笠鉄道笠岡駅(旧国鉄笠岡駅)から1.1kmのところにありました。
駅には機関区があって機関車や客車の整備をしていました。
 

旧くじ場駅跡を過ぎると20パーミル(1000mで20m登る)の急坂です。
列車は、線路に砂をまきながら、時には乗客が押しながら登って行ったそうです。
左側に蒸気機関車時代の給水塔が残っていました。



旧大井村駅跡。旧くじ場駅から2.4kmだったそうです。
ここで20パーミルが終了です。
駅跡を過ぎると山陽自動車道の下をくぐります。







やがて、旧小平井(おびらい)停留所跡。
委託駅だったからでしょうか、「駅」ではなく「停留所」でした。
旧大井野駅跡から1.5kmでした。ここには、旧駅舎が残っていました。
委託していたMさんのお宅と言った方がいいのでしょうか?
かつてのホームの石垣らしきものや、当時のトイレもそのまま残っていました。

ここを過ぎると、かつての線路は、道路と別れ畑の中に残っています。
写真の道がかつての線路跡で、道路はトラックの後ろを通っています。
残念ながら、写真にある木の下で線路跡が途切れてしまいます。

かつての線路跡は、やがて、県道笠岡・美星線の中に取り込まれていきます。

県道をしばらく進むと旧吉田村駅跡。
旧小平井停留所跡から1.1kmでした。
広場に駅舎があり、中心にある道は、駅への取り付け道路でした。

さらに、県道を進みます。
旧吉田村駅跡から2.4kmで旧新山駅跡に着きます。
現在、鉄道博物館になっています。



ここには、井笠鉄道のたくさんの遺産が保存されています。
ここの管理人のTさんです。元新山駅の駅長さんだそうです。
参加者はみんな紅白のお餅をいただきました。



たくさんの表彰状に囲まれたTさんの事務所です。

そこに、かつての時刻表が展示されていました。
上側が上り笠岡行きで1日19本。下側は下り井原行きで20本。
旅客列車を示す「旅」とともに
貨物と旅客の混合列車を示す「混合」の文字が見えます。
(ちなみに、開業時は、1日6往復で2~3時間間隔の運転で、所要時間は、
1時間22分だったそうです)
通常は、気動車1両と客車1~2両で、
通学時間帯には客車4両の前後に、気動車1両ずつを連結した6両編成で、
運行していました。
混合列車は、旅客列車(気動車1両と客車1両)に貨車1~2両でした。




 
駅舎の並びに、SLコッペル1号機・客車ホハ1・貨車ワフ1が展示されています。
コッペル1号機は大正2(1913)年のドイツ製。購入金額、6,205円だったそうです。
客車ホハ1の車内です。大正2(1913)年日本車輌製造製。
ここで昼食をとった方は、一様に「狭かったねー」と言っておられました。
有蓋貨車ワフ1は、大正3(1914)年日本車輌製造製です。

ここで、45分間の昼食休憩。  困ったのがトイレ。 ないのです。

12時45分出発。
15分ぐらい進んだところにコンビニ F がありました。
集団から遅れることを覚悟して、トイレを借りるため立ち寄りました。
10人ぐらいの人が先におられました。

この後は、もう、線路跡が残っているところはありません。
はるか先の集団を追って、県道をひたすら歩きます。

小北中学校。 この近くに、矢掛線を分岐していた旧北川駅跡があったはずです。
資料では、旧新山駅から3.1kmだそうです。
私がここに着いたとき、
駅舎跡に立ってくださっていた運営スタッフは、すでに次の駅に移動していました。
駅舎の跡を特定することはできませんでした。



旧薬師駅跡。  旧北川駅から1.2km。
ここで、すぐ前の10人ほどの集団に追いつきました。
広場に駅舎があり、道は駅への取り付け道路でした。
写真の手前側にお薬師さまがあり、多くの参拝客がお参りしていたそうです。
「最盛期の昭和30年代、この駅の乗降客は30人ぐらい」の説明に、
近くにいた人から、「今の井原線より多いじゃないの!」。

また、県道を歩きます。



旧木之子駅跡。旧薬師駅から2.5km。
広場に駅舎。写真の左には、お店が並んでいたそうです。
ホームの後ろにあった塀の木の一部が、移設されて残っていました。
取り付け道路に沿って酒造会社、その先に木之子小学校。

ここは、井原市が誇る「ビール王、馬越恭平氏」の出身地です。
木之子村の医家に生まれ、三井物産に入社。日本麦酒に派遣され役員となる。
明治39(1906)年、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒が合併して
大日本麦酒を設立したときに、社長に就任。
後に、シェアを79%まで高めて、「ビール王」と言われた人です。
一方で、井笠鉄道の社長としても活躍し、民鉄協会の会長も務めています。

この方の名前、「馬越」は何と読むのでしょうか?
木之子村では「うまこし」、 サッポロビールでは「まごし」、
馬越氏の先祖の地(今治市馬越)では「うまごえ」、 氏の子孫の家では「まこし」、
氏が寄贈した橋の名前は「うまごしばし」、様々あるようです。
(「2007年10月5日付け山陽新聞」・孫引きです。)



ひたすら歩いて、高架になっている井原鉄道の下をくぐります。
やがて、道は井原線と平行になって旧七日市駅跡へ。旧木之子駅から2.9km。
運営スタッフがおられるところの向かいに駅舎がありました。
他の駅と同じように取り付け道路がついています。
その先には、江戸時代の山陽道七日市宿。

これは、スタッフが持っていた駅の説明板に載っていた、
旧七日市駅の写真です。
近くにおられた参加者から
「この先に旧七日市駅を案内する石碑がある」とのお話。

旧七日市駅から1.2kmで旧井原駅。現在の井原バスセンターでした。
今回のウオークは、旧七日市駅跡から近い、写真の井原鉄道井原駅が終点でした。
最初にも書いたように、午後2時5分に到着しました。

18kmを、5時間で歩き抜きました!  
旧新山駅までは、井笠鉄道をたどる楽しみ、後半はウオーキングの楽しみ、
私には、やはり前半が数段楽しかったです。
運営や説明をしてくださった、井笠鉄道の皆さんに感謝です。

明日、いや明後日かな?
足が痛くなることでしょう!