トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

白壁の町、柳井市に行ってきました

2011年10月31日 | 日記

白壁の町並みで知られる山口県柳井市に、
公民館で共に学ぶ人たちと一緒に行ってきました。
柳井といって、私がまず思い出すのは柳井高校です。
全国高等学校野球選手権大会で、
豪腕投手、板東英二を擁する徳島商業高校を、
大差で破って優勝しました。
昭和33(1958)年のことでした。
私より年長の参加者は、みんな覚えていました。

1400年前、般若姫(豊後国の満野長者の娘)が、
用明天皇(聖徳太子の父)に召されて海路で上京中に、この地に上陸しました。
求めて飲んだ水が大変おいしかったので、大事に持っていた、
不老長寿の楊枝を井戸のそばにさしたそうです。
すると、その楊枝は、一夜にして大きな柳になったということです。
これが、柳井という地名の起こりだそうです。

江戸時代には、柳井は、
「岩国藩のお納戸」と呼ばれた、旧山陽道屈指の商業都市でした。

今回は、バスで行きましたので、
駐車場の隣のこの道から、ボランティアガイドの案内で、
歩き始めました。

200メートルにわたって、白壁の町並みが続きます。
あざやかな、漆喰の白さが印象的です。
昭和59(1984)年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されたところです。
ガイドさんのお話では、
今の町並みができあがったのは、江戸時代中期の、
明和5(1768)年頃だったそうです。
 
その中でも、18世紀後半に建てられた国森家は、
江戸時代中期の豪商の邸宅の姿をよく残しています。
国の重要文化財に指定されている商家です。
店に、「梅香艶出し油」と書かれているように、
灯し油やびんつけ油を商う大商人でした。

店の裏を流れる柳井川の雁木(船着き場)から荷揚げされていました。
 
こちらは、最盛期には帆船50隻を持ち、西日本有数の油商といわれた、
室屋(むろや)小田家の邸宅です。
主家は享保年間(1730年ごろ)の建築で、山口県で最も古い民家です。
屋敷面積は800坪。
国内に現存する町家の最大級といわれています。
現在、「商家博物館むろやの園」として、一般に開放されています。
 
岩国藩の殿様をして「甘露甘露」と言わしめた柳井の醤油。
これは、佐川醤油店の醤油蔵(甘露醤油資料館)です。
おいしい水があったことが、醤油をつくるのに役立ったということです。

白壁の醤油蔵にはたくさんの観光客が訪れ、甘露醤油を買い求めていました。
もちろん、私たちの仲間も重いぐらい買っていました。

ここは掛屋小路。
柳井川に荷揚げされた品を運ぶ道でしたが、
近くに金融業を営む店があったので、この名がついています。
歩くと癒される美しい路地です。

町並みの軒下につるされている金魚ちょうちん。
幕末に、この地の熊谷林三郎が、青森のねぶたをヒントに、
柳井の伝統織物の柳井織を使って始めたといわれます。
白壁の町によく似合っています。

金魚ちょうちんとともに、軒下には、
笹の枝に赤い色紙で折った金魚がつるしてありました。
こちらは、今年の山口国体の応援用につくったものだそうです。

明治40(1907)年に建てられた旧周防銀行の本店。
今は、柳井高等女学校(現柳井高校)出身の歌手、
松島詩子さんの記念館になっています。

私は、何年か前に一度柳井に来たことがあります。

そのときは、多分日曜日か祭日で、町にジャグラーが立っていました。
話し掛けられて相手をしていたら、
「もう少しここにいてください」といわれました。
やがて、芸が始まり、
最後に帽子の中に「500円を入れてください」といわれたことがあります。
「ええ、500円?」と思いながら、500円を投げ込んだことを思い出しました。
 
そのときはJRで来ましたので、
「むろやの園」から本橋を渡って、柳井駅に向かいました。
麗都路(レトロ)通りの両側はギャラリーになっていて、
多くの作品が展示されていました。

また、旧周防銀行本店(松島詩子記念館)を模したポストが、
立っていて、現役のポストとして使われていました。
この通りも、白壁の町並みに劣らず見事なものでした。

江戸時代から明治時代にかけて商業都市として栄えた柳井でしたが、
国道2号線や山陽新幹線、山陽自動車道などから遠く離れているため、
今も、伝統的な町並みの雰囲気がよく残っています。

白壁の町をていねいに整備して、大切に保存している柳井に、
これからもたくさんの人々が訪ねてくださることを、
願わずにはおられませんでした。