竹内街道という響きに誘われて、バスツアーに参加しました。
竹内街道は、
堺市の大小路から羽曳野市の古市を抜け、太子町を通り、
二上山の南の竹内峠を越えて葛城市当麻の長尾神社にいたる約26kmの道です。
この道は、さらに奈良盆地を横断する横大路を経て明日香村に通じています。
竹内街道は、「日本書紀」の推古天皇12(613)年の、
「難波より京に至る大道を置く」という記述の、
「大道(おおどう)」が起源だといわれています。
スタートは、道の駅「近つ飛鳥の里 太子」です。
政治の中心だった大和の飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼ぶのに対し、
太子町周辺を「河内飛鳥」とか「近つ飛鳥」とかと呼んでいるようです。
それにちなんで、名づけられたのでしょう。
地元の産品である枝豆、みかん、柿などの地元の産物が並んでいて、
多くの人を集めていました。
「観光ボランティア 太子街人(ガイド)の会」の方の案内で、
太子町を歩きました。
最初に訪ねたのが、「竹内街道歴史資料館」。
竹内街道の起源が示されていました。
もともとは、石器の材料であった二上山のサヌカイトを採取する道が、
整備されて官道になったそうです。
二上山の山麓は、石棺の石材だった凝灰岩や、
金属の磨き砂、「金剛砂(こんごうしゃ)」の産地でもありました。
歴史資料館の庭には、サヌカイトが展示されていました。
竹内街道に入りました。
別れ道の案内役は聖徳太子様。ここ太子町では、いたるところで活躍しています。
歴史ある街道の雰囲気が伝わってきます。
しばらく行くと、茅葺きの屋根のある民家が見えました。
山本家住宅。 江戸時代後期の民家です。
切妻の屋根の部分に近いところについた煙出し、瓦葺きに続く茅葺き屋根。
太子町にある伝統的な民家です。
町に寄付され、茅葺きに復元したと言われていました。
街道筋につきものの常夜灯。
この日は、街道を灯りで照らすイベントがあるということで、
灯りが点されることになっていて、電線が引き込まれていました。
「餅屋橋」の道標。
飛鳥川に架かっている橋のたもとに、かつて餅屋があったそうです。
江戸時代の後期、伊勢参りがブームになったときには、
ここで、人々に餅を施していました。
当時、たくさんの人々が十分な装備もなく伊勢に向かったため、
行き倒れになる人も多かったのです。
その人たちの始末は村人にゆだねられていたため、
無事にこの村を通り過ぎてもらうためであったと、
ガイドさんは説明されていました。
竹内の集落には、茅葺き部分をトタン板でおおった民家がかなり残っていました。
路地も趣がありました。
太子町には、多くの天皇や皇族、ゆかりの人の墓地があります。
最初に訪ねたのは「小野妹子の墓」でした。
経50m、高さ10mの楕円形の墳墓。
江戸時代の「河内名所図絵」に、「妹子の墓」と書かれているそうです。
小野妹子は華道の池坊の道祖とされており、
大正期に、池坊の関係者が墳墓の修復をしたそうです。
「妹子は、滋賀県の小野村(湖西線和邇駅近付近)出身」という説が有力で、
地元にと思う太子の人たちにとっては、修復はうれしいことなのでした。
妹子も遣隋使として、隋に向かって竹内街道を通ったことでしょう。
推古天皇陵。
第33代天皇、即位は593年。
日本で最初の女帝です。在位36年、73歳で死亡。
竹田皇子の墳墓に追葬され、後にこの地に移されたということです。
聖徳太子は、この天皇の摂政として政治を行いました。
推古天皇の墳墓のすぐ近くに二子塚古墳があります。
二つの墳丘が連接された古墳です。
「推古さん」「妹子さん」と親しみを込めて呼ぶ地元の人たちには、
「追葬された」ということから、
この古墳の方が推古天皇陵だと、信じている人が多いそうです。
用明天皇陵。
第31代天皇。685年に即位し在位2年で亡くなった方です。
聖徳太子のお父様です。
東西 65m 南北60m 高さ10m。日本で初めての方墳だそうです。
これは、地元で「馬子塚」と呼ばれている石塔です。
この石川の地は、蘇我氏の本貫地だそうです。
蘇我馬子の墓といえば、石舞台古墳。 広く知られています。
京都大学の発掘で、そちらが馬子の墓と推定されていますが・・・。
もちろん、地元の人はこここそが馬子の墓と信じておられることでしょう。
今回は、行けませんでしたが、敏達天皇陵、孝徳天皇陵も、
この地にあります。
古代の政治を彩った人たちも、竹内街道を往来していたのでした。
最後に、案内されたのが、太子町のどこからでも見える、
大伽藍の磯長山叡福寺(しながさんえいふくじ)。
ここは、聖徳太子の御廟があるところです。
山門を入ると、左側に多宝塔(国指定重要文化財)と金堂、
聖霊殿(国指定重要文化財・太子堂とも呼ばれる)が一列に並んでいて、
山門の正面の先には、御廟が鎮座しています。
聖徳太子は、27歳の秋、
秦河勝からもらった黒毛の馬で、諸国を回ったといわれています。
国の境を知るとともに、自らの墓をつくる場所を見つけるためだったそうです。
「富士山から南を見たとき、五色の光が空に輝いていた」から、
五字ヶ峰に墓を築いたといわれます。
今の御廟のあるところがその地だと言い伝えられています。
ご廟には、聖徳太子(622年2月22日逝去)だけでなく、
母の穴穂部間人皇后(621年12月21日逝去)と
后の膳郎女(622年2月21日逝去)がともに葬られています。
聖徳太子ゆかりの地への「太子信仰の道」としても、
竹内街道は多くの人に使われてきたのです。
降り出した雨の中、最後に行ったのが、「和みの広場」。
ここは、古代から「金剛砂」の産地だったところです。
ところどころに、採掘した跡を示す穴があいていたそうです。
そこが広場に整備され、広場を丸く囲むように、
17個の石碑が建てられています。
そこには、聖徳太子が制定した「十七条憲法」が、
1つの碑に1条ずつ書かれていました。
歴史を誇る竹内街道。
この地でくりひろげられた数々の歴史の遺産を、
今、この地に生きる人々は、しっかりと守り続けておられました。
竹内街道は、
堺市の大小路から羽曳野市の古市を抜け、太子町を通り、
二上山の南の竹内峠を越えて葛城市当麻の長尾神社にいたる約26kmの道です。
この道は、さらに奈良盆地を横断する横大路を経て明日香村に通じています。
竹内街道は、「日本書紀」の推古天皇12(613)年の、
「難波より京に至る大道を置く」という記述の、
「大道(おおどう)」が起源だといわれています。
スタートは、道の駅「近つ飛鳥の里 太子」です。
政治の中心だった大和の飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼ぶのに対し、
太子町周辺を「河内飛鳥」とか「近つ飛鳥」とかと呼んでいるようです。
それにちなんで、名づけられたのでしょう。
地元の産品である枝豆、みかん、柿などの地元の産物が並んでいて、
多くの人を集めていました。
「観光ボランティア 太子街人(ガイド)の会」の方の案内で、
太子町を歩きました。
最初に訪ねたのが、「竹内街道歴史資料館」。
竹内街道の起源が示されていました。
もともとは、石器の材料であった二上山のサヌカイトを採取する道が、
整備されて官道になったそうです。
二上山の山麓は、石棺の石材だった凝灰岩や、
金属の磨き砂、「金剛砂(こんごうしゃ)」の産地でもありました。
歴史資料館の庭には、サヌカイトが展示されていました。
竹内街道に入りました。
別れ道の案内役は聖徳太子様。ここ太子町では、いたるところで活躍しています。
歴史ある街道の雰囲気が伝わってきます。
しばらく行くと、茅葺きの屋根のある民家が見えました。
山本家住宅。 江戸時代後期の民家です。
切妻の屋根の部分に近いところについた煙出し、瓦葺きに続く茅葺き屋根。
太子町にある伝統的な民家です。
町に寄付され、茅葺きに復元したと言われていました。
街道筋につきものの常夜灯。
この日は、街道を灯りで照らすイベントがあるということで、
灯りが点されることになっていて、電線が引き込まれていました。
「餅屋橋」の道標。
飛鳥川に架かっている橋のたもとに、かつて餅屋があったそうです。
江戸時代の後期、伊勢参りがブームになったときには、
ここで、人々に餅を施していました。
当時、たくさんの人々が十分な装備もなく伊勢に向かったため、
行き倒れになる人も多かったのです。
その人たちの始末は村人にゆだねられていたため、
無事にこの村を通り過ぎてもらうためであったと、
ガイドさんは説明されていました。
竹内の集落には、茅葺き部分をトタン板でおおった民家がかなり残っていました。
路地も趣がありました。
太子町には、多くの天皇や皇族、ゆかりの人の墓地があります。
最初に訪ねたのは「小野妹子の墓」でした。
経50m、高さ10mの楕円形の墳墓。
江戸時代の「河内名所図絵」に、「妹子の墓」と書かれているそうです。
小野妹子は華道の池坊の道祖とされており、
大正期に、池坊の関係者が墳墓の修復をしたそうです。
「妹子は、滋賀県の小野村(湖西線和邇駅近付近)出身」という説が有力で、
地元にと思う太子の人たちにとっては、修復はうれしいことなのでした。
妹子も遣隋使として、隋に向かって竹内街道を通ったことでしょう。
推古天皇陵。
第33代天皇、即位は593年。
日本で最初の女帝です。在位36年、73歳で死亡。
竹田皇子の墳墓に追葬され、後にこの地に移されたということです。
聖徳太子は、この天皇の摂政として政治を行いました。
推古天皇の墳墓のすぐ近くに二子塚古墳があります。
二つの墳丘が連接された古墳です。
「推古さん」「妹子さん」と親しみを込めて呼ぶ地元の人たちには、
「追葬された」ということから、
この古墳の方が推古天皇陵だと、信じている人が多いそうです。
用明天皇陵。
第31代天皇。685年に即位し在位2年で亡くなった方です。
聖徳太子のお父様です。
東西 65m 南北60m 高さ10m。日本で初めての方墳だそうです。
これは、地元で「馬子塚」と呼ばれている石塔です。
この石川の地は、蘇我氏の本貫地だそうです。
蘇我馬子の墓といえば、石舞台古墳。 広く知られています。
京都大学の発掘で、そちらが馬子の墓と推定されていますが・・・。
もちろん、地元の人はこここそが馬子の墓と信じておられることでしょう。
今回は、行けませんでしたが、敏達天皇陵、孝徳天皇陵も、
この地にあります。
古代の政治を彩った人たちも、竹内街道を往来していたのでした。
最後に、案内されたのが、太子町のどこからでも見える、
大伽藍の磯長山叡福寺(しながさんえいふくじ)。
ここは、聖徳太子の御廟があるところです。
山門を入ると、左側に多宝塔(国指定重要文化財)と金堂、
聖霊殿(国指定重要文化財・太子堂とも呼ばれる)が一列に並んでいて、
山門の正面の先には、御廟が鎮座しています。
聖徳太子は、27歳の秋、
秦河勝からもらった黒毛の馬で、諸国を回ったといわれています。
国の境を知るとともに、自らの墓をつくる場所を見つけるためだったそうです。
「富士山から南を見たとき、五色の光が空に輝いていた」から、
五字ヶ峰に墓を築いたといわれます。
今の御廟のあるところがその地だと言い伝えられています。
ご廟には、聖徳太子(622年2月22日逝去)だけでなく、
母の穴穂部間人皇后(621年12月21日逝去)と
后の膳郎女(622年2月21日逝去)がともに葬られています。
聖徳太子ゆかりの地への「太子信仰の道」としても、
竹内街道は多くの人に使われてきたのです。
降り出した雨の中、最後に行ったのが、「和みの広場」。
ここは、古代から「金剛砂」の産地だったところです。
ところどころに、採掘した跡を示す穴があいていたそうです。
そこが広場に整備され、広場を丸く囲むように、
17個の石碑が建てられています。
そこには、聖徳太子が制定した「十七条憲法」が、
1つの碑に1条ずつ書かれていました。
歴史を誇る竹内街道。
この地でくりひろげられた数々の歴史の遺産を、
今、この地に生きる人々は、しっかりと守り続けておられました。