トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

乗り放題切符で海津に行ってきました

2011年10月12日 | 日記

「JR西日本乗り放題きっぷ」、1日乗り放題、3,000円です。
「乗り放題」というと、しっかり乗ってモトを取ろうという、
意地汚い考えで、私は、いつも遠くに行きたくなります。
今回は、旧マキノ町の海津(かいづ)を訪ねることにしました。

早朝に自宅を出てJR岡山駅へ。
7時7分発の姫路行の列車と新快速を乗り継いで、京都の山科へ。

めざす海津は、福井県との県境に近い湖北にあります。
湖西線の電車に乗り継いで、11時50分に、最寄りのマキノ駅に着きました。
車窓右手に琵琶湖の風景を見ながらの旅でした。
JR岡山駅を出てから4時間43分、自宅を出てから5時間50分経っていました。

旧滋賀県高島郡マキノ町。現在の高島市マキノ町。

昭和10(35)年、海津村など4ヶ村が合併したとき、
全国に知られていたスキー場の名を、町の名につけたそうです。

人間の顔のようにみえるオブジェには、
「カタカナの町名は、ニセコ町との二つしかない」と書かれていました。
でも、高島市になった今、「マキノ町」は正確には町名とは言えないでしょうね。
カタカナがついた市町村名で、私が思いつくのはコザ市と南アルプス市ぐらい。
貴重な名前が消えてしましました。

駅前通りは、新しく開発が進んでいるところです。
そのケヤキの道を、琵琶湖に向かって進みます。
20分ぐらいで、旧街道に出ました。

琵琶湖の西岸を北に向かう西近江路。ここは古代・中世の北陸道。
敦賀に寄港する北前船からの物資は、
近江との県境の「7里越え」をとおって海津に運ばれました。
そこから船で琵琶湖を縦断して大津港へ、
さらに、京都や大阪に運ばれて行きました。
海津は、江戸時代を通して、
西近江路の港町、宿場町、商業の町として栄えたところです。
街道沿いの宿場町の面影を残す町並みが、
今も、当時の雰囲気を伝えてくれています。


平成20(2008)年、海津は「重要文化的景観」の指定を受けました。
「自然と人の暮らしがつくりあげて来た文化的な景観」のことだそうです。
この辺りで営まれてきた、伝統的な地引き網漁や
魚類加工のための作業場、湖岸の石積みや生活習慣など、
多様な水にかかわる文化が評価されてのことと言われています。
倉庫や江戸時代の建築物も指定の中に含まれているようです。

漆喰で固められたどっしりとした漁業協同組合の倉庫。

裏は海津港でした。
外来魚に苦しめられているようです。

木製の看板には、「天明4(1784)年創業」と書かれています。
ここは、「狐狸庵」こと、遠藤周作さんがなじみにしていたお店だそうです。

最近は、「鮒寿司は1万円札を切っているようだ」と言われます。
それほどの貴重品。
琵琶湖からの鮒だけではまかなえず、宍道湖からも運ばれているとか。



江戸時代創業の吉田酒造と醤油の中村屋さん

歴史を伝える土蔵。
指定の要素ではありませんが、その右隣に豪華な建物がありました。
「海津町迎賓館」と書かれていました。
これは、公的施設ではなく、個人のお宅だそうです。

寛文12(1672)年、河村瑞賢によって西回り航路が開発されてからは、
海津を経由する物資は激減し、海津は衰退への道を歩んでいきました。
明治3(1867)年、磯野源兵衛と井花伊兵衛らが蒸気船を購入し、
大津・海津間に航路を開きました。
後の太湖汽船や琵琶湖汽船の母体となったそうです。
しかし、「起死回生」とはならず、衰退に歯止めをかけることはできませんでした。
いまは、砂浜近くの湖上に、その桟橋跡の杭だけが残っています。



海津といえば、砂浜に沿ってつくられた石垣が有名です。
「重要文化的景観」の指定の要素ともなった石積みです。

元禄16(1703)年、高島郡の代官として赴任していた、
西与一左衛門が、幕府に働きかけてつくったものです。
それまで、海津の人々は風波のたびに被害を受けていました。
東浜部分の367間半(668m)と西浜部分の272間(495m)が、
砂浜と宅地の間に今も残っています。
石垣のむこうに美しい琵琶湖の姿が見えます。
この視線の先に竹生島が見えるはずですが・・・。



ていねいな説明が書かれた案内板です。
テレビの時代劇では、悪代官がたくさん出て来ますが、
実際には、多くの代官は領民のために頑張っていたのだと思います。
この西代官は、「荒れ地の田租を免じたり、川役(漁税)を免じる」など、
「善政を進めた」方だったようです。
後世、村人は、街道沿いにある蓮光寺の中に碑を建立して、
毎年3月15日には、彼をしのぶ法会を行って来ました。

東浜の先は、海津大崎。
600mにわたって、ソメイヨシノの並木が続いています。
「日本さくらの会」の「日本のさくら名所百選」に選ばれている桜並木です。
整備のきっかけをつくったのは、この地の道路補修にたずさわっていた、
当時37歳だった宗戸清七という方です。
作業の合間に、自費で購入した若木を植え始めたのです。

昭和11(1936)年、近くの大崎トンネルの完成に合わせて、
海津村民が植樹してできあがったものだそうです。
春には、毎年多くの人を集める桜の名所。
きっかけをつくった宗戸清七氏をたたえる碑が立っていました。

海津に残るすべての歴史遺産が、生活習慣も含めて評価された、
「重要文化的景観」に指定されたことが、
海津の人たちにとって、何よりの誇りではないかと、
町を歩きながら、思ったものでした。

けやきの通りのお店で、遅い昼食を食べました。
なかなか豪華な日替わりランチでした。
お店のマスターのお話もおもしろく、少し元気をいただきました。

帰りもまた、岡山駅に着くまで、長い、長い普通列車の旅が続きます。