風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

修行

2009年06月06日 | スピリチュアル
今日も終日空は雲に覆われていました。
涼しくて過ごしやすい一日ではありました。

袴をネットで買いましたが、驚くほど安かったです。
で、ちょうど来週から禅道場で接心があるということを知りました。
ナイスタイミングです。

滝行も禅もそうですが、してみたいという好奇心と実際してみた心地の良さと学びの多さからぼくの場合は続けています。
必要があるからとか、心身修行のためとか、悟りたいからとか、験力をつけたいからとかいう理由はありません。
なにかの「ために」する修行というのは、もっとも修行の意義を損なう心の態度ではないかと思っています。
ためになろうがなかろうが、森林浴と同じように滝浴をし、草原に坐るように道場で坐る。
それ以上の意図はかえって邪魔になるでしょう。
なにかのためにとか、なにかになりたいというのは欲です。
欲を捨てる、あるいは越える経験というものはどういうものなのかを知りたくて修行するのに、
欲の大元を修行の現場に引きずり持ち寄ってはやはりダメでしょう。

日常そのものを大切に送ることが修行だとはよく言われることです。
それは本当にその通りです。
日々出会う人と一期一会の心で出会い尽くし、通り過ぎていく風景を味わい尽くし、自らの心象風景をも味読し尽す。
それができたら人生の達人です。
いつかそうなりたいものです。

ではなぜ修行をするのか。
山登りにも色々なルートがあります。
尾根道を辿る道、沢登り、ロッククライミングから、雪山登り、氷壁に覆われたエベレストまであります。
ぼくの場合は、いろいろなルートを試せる限り試してみて、そこで見える風景を経験してみたいということが一番の理由です。
色々な風景を見たからといって誰に自慢できるわけでもなく、実生活にそれほど役に立つことだとも思いません。
色々な映画を見てみたいということとまったく同じことです。

生きるというのは自分の目の前に広がっている風景を味わうことだと思っています。
成長するとは、目の前の風景がより深度と愛しさと広がりを持って行くことだと思っています。
さらには、より自分の志向する「美」の世界に自分の周囲の風景が近づいていくことではないかとも思っています。

おそらく日常というのは底知れぬ恩恵と美に溢れているはずです。
目が曇っているから、心が曇っているから、そうは見えないだけなんだろうと思います。
修行というのは一瞬だけでもその種の曇りから抜け出したと思えるよぷな時があります。
そんな経験は脳内麻薬の一種が出たに過ぎないといわれればそれまでです。
説明不可能な領域に説明不可能なまま身体を預けるだけです。
だから、お勧めはしません。
いや、一度は体験してみたらとは言いたくなりますが、責任を負えません。
どんな経験でもそうですが、どんな経験でもそれぞれの人の抱える心象風景というのは違うものです。
一つの経験で受け取る各人の感想やら印象やらはバラバラです。
ま、そんなバラバラな感想やら印象やらを乗り越えた本物に辿り着こうとするのが修行なわけですが、
そのあたりはそうしてみたいと思わなければそれだけの話ですから、説明がちょっと難しいです。

なんにせよ、明日も滝に行ってこようかと思っています。

いろいろなルートを試してみて、いずれ目の前の平凡な道が宝なの山だったと気づく日が来るのだと思います。
いまでもそうは思ってはいるのですが、ぼくの好奇心が冒険せよと命じます(笑)