風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2009年06月11日 | スピリチュアル
今日は数日ぶりに晴れ、気持ちのよい風が吹いていました。
ふと釣りに行くのにはうってつけの日だなと思いました。
何年(おそらく十年以上)も釣りになど行っていないのですが、こんな日に潮騒をボ~ッと聞いているのもいいなと思いました。

娘はなんにでも手を出しますから、釣りはまだダメでしょう。
エサ箱をひっくり返し、釣り針に手を刺し、岸壁から海へ転げ落ちるでしょう。
娘からすればどこへ行きたいだろうかとか、なにをしたいだろうかと、娘の視線でものを考えることがよくあります。

ぼくからすれば娘は娘ですが、娘からすればぼくは父親です。
当たり前のことですが、人は息子や娘であり、親でもあったり、誰かの知人であり、友人であり、得意先であり、
同僚であり、知らぬ誰かであり、恋人でもあったりします。
さらには、加害者であったり、被害者であったり、善人であったり、嘘つきであったり、時には搾取し、時には搾取されます。
一人の存在は、社会に存在するということだけで選びようもなく多重の意味を帯びてしまいます。
多様な人々の間で、多重な意味を帯びながら生きていくわけですから、人生を複雑に考えれば限りなく複雑なものになります。

多種多様多重の外部環境に合わせようと思ったら、そりゃノイローゼになります。
「人々」ということも含めて外部環境なんていうものは極めて恣意的・流動的なもので、合わせようがありません。
ノイローゼにならないためには、外部環境に影響されない自分の行動の指針というものをしっかりと持っていなければなりません。
その指針とは何かというと、それこそ人それぞれの話になってしまいますから、イメージ的にはこうです。

外部から要求あるいは期待された「役」を演じるのではなく、自分の演じたい「役」を演じるということ。

長い間外部からの要求やら期待やらに応えるべく「役」を演じ続けますと、自分本来が演じたい「役」というのを見失うことがよくあります。
本来演じたい「役」というのが見つからないと、「本来の自分」というのも見うしなったままになります。
「役」というのは、「本来の自分」がこの世で自己表現していく「姿」だからです。

学校や職場や仲間内でも、人間関係というのは、無責任な要求やら期待やらで満ちているものです。
そんな無責任な要求や期待にいちいち反抗するのはダメです。下策です。
そういう大きな流れに敵うはずもなく、かえって自分がボロボロになります。

多種多様な価値観が渦巻く世界においては、「自分が」を中心にした言動というのは大抵は失敗します。
反抗というのは、自分の正しさと他人の間違いを対比させ、自分の主張を押し通すことです。
正しさと間違いを対比させた対立はひたすら消耗するだけです。
正しさと間違いは見方の違いでしかないですから、「自分の見方が正しい」合戦になるだけです。
そういう不毛な対立はますます人を孤立させていきます。

ではなにができるか。
先ずは、外部からの要求やら期待があるのなら、それに応えようと思えば応えられるだけの能力・体力・忍耐力を身につけること。
外部からの要求・期待に応えてこそ、自分のしたい「役」という自分自身の道が初めて開けてくるのだとぼくは思います。
基礎的な能力・体力・忍耐力などを身につけていないうちに、やりたい「役」をやれるほどこの世は甘くないのでしょう。

人が進む道には色々な障害がありますが、「対立」という手段はおそらく最悪な手段です。
そうせざるをえなかった経験は誰にでもあるでしょうが、対立している間はどこにもいけない状況が続いたはずです。
障害があったときには、対立ではなく、それを「越えること」が人の能力の活かしかただと思います。

いちいち障害と対峙してたら身が持ちません。
自分の周囲の貧乏、悪意、嫉妬、意地悪、無責任、失恋、そんなものにいちいち目を向けていたら、そら生きているのが嫌になります。
そういう課題は、教科書では学べない生きたレッスンだと思うことです。
生きたレッスンですから、上手くクリアすることができないと、心が痛みます。
落第したからといって、先生の拳骨やら、親の叱責ではすみません。
リアルにクリアしないことには、自分の心が痛みます。
だからこそ、本気でクリアすると決めた方がいいです。
無駄な抵抗を続けるうちに、放っておかれた痛みは膿んでいきます。

越えること。
相手を越えるのではありません。
自分を越えるのです。
自分の枠を越えるのです。
考え方を越えるのです。
それ以外に、越えるものなど一つもありません。

自由というのは、無条件に自由になるのではなくて、「自由でいるという選択」をし続けることです。
自分が不自由な観念やら思い込みやらに縛られているなら、真っ先にそこから自由になるしかありません。
心が自由であれば、「対立」という心のポジションは不可能になります。

ようは、心身とも「活かしきる」ということです。
「自分について」悩むエネルギーがあるなら、「自分を」活かすエネルギーに転化することです。
「自分について」などというのはどうでもいいことです。
甘えと欺瞞と無責任にベトベトになった概念らしき不健康な意識のエネルギーです。
「自分を」どうするかが人ができるすべての選択です。
自分が自分をどうにかし続ける。
そうなった時に、自分のしたい「役」というものがその形を明らかに現してくるのでしょう。