風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

造形

2009年06月01日 | スピリチュアル
若葉が萌え盛り、心地よい風が吹き抜ける今日この頃です。
今週末くらいから梅雨入りしそうとのことですが、晴れて良し、雨もまた良しの心境の真似事でもしてみます。
でも、実際雨降りの日ってそんなに嫌いではありません。
雨に降り込まれて、街道筋の茶店に駆け込んで、ところてんを啜るという感じの江戸時代が羨ましいくらいです。

どうにかこうにか決算を仕上げました。
毎年のことながら、心身ともに疲弊します。
そこで、大いに疲弊しつつも、書式その他を整えて、今年度からは明快すっきりなシステムにしました。
こういう感じのグタグタの決算の経験はこれで最後でしょう。
うふふふ。

なにを今頃と思うでしょうが、ものごとの推移には何事も適切な時節というものがあります。
適切なシステムが有効に作動するには、適切なシステムが有効に作動し始める時節というものがあります。
最初からすべて完璧に作動するシステムというのは、人間の無限の可能性を無視し侮ったものです。
例えるなら、砂場の砂山を作るのに完璧なシステムを考え出すようなものです。
いくら完璧なシステムで作った砂山でも、悪戯小僧が両手で引っ掻き回せば一瞬にしてその造形は消え去ります。

主題は、システムの構築でもなければ、システムの保全でもありません。
なにを造形したいのか。
その一点です。
なんらかを造形したいという意志こそがすべてです。
システムそれ自体はその造形への意志に対する奉仕者に過ぎません。
奉仕者が主役になれば、主体者である人間は疲れ倦み果てることになります。

と、決算が終わったとたんに勝手なことをほざくのが人間というものです(笑)

で、日々我々はなにを造形しようとしているのか。
悲惨な現実。
浄土楽土。
混沌。
なんでもありです。
なんでもいいのですが、それを造形しようとした自分がいるだけです。

なにを造形してもいいのですが、それは誰の責任でもありません。
責任とは誰かに負わせるものではなく、あくまでも自分がなにを負うのかに
尽きるのだとぼくは思っています。