風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2007年10月29日 | 雑感
近頃、禅の本を読み直しています。
以前は歯が立ちませんでしたが、いろいろ一巡りしたせいか、これは凄いやと思って読むことが出来ます。

「お寺に参ろうが,念仏申そうが,坐禅しようが,何にもなりはせん。
 われわれが一生することはみなこれ無功徳である。
 人間,なんぞになると思うてするくらい卑しいことはない。」
                           by 澤木興道老師

一切のハカライを捨てたところに、宇宙と一体となった「空」を体得する。
しかも、空を体得する「ため」に坐禅するのではない。
仏の相(形)である結跏趺坐にピタリとタダひたすらに成りきる。
本来成りきりであるものを、迷いの凡夫はああでもない、こうでもないと右往左往して「今」を失う。
「今」を失えば、生きることを失う。
残るものは、言葉のカスと欲のカスだ。

そんな感じの言葉がスパスパと出てきます。
以前は頭ではなんとなく理解できるような気がしていたのですが、自分の実感にピタリと重なりませんでした。

百姓は百姓になりきればいい、商人は商人になりきればいい。
なりきることが「今」をつかむということ。
「今」さえ掴んでおれば、生死は裏表、一如であることを知る。

もう読んでいて痛快です。
ぼくが今頭の中で意訳した言葉はどうも的を外している感じがしてなりません。
それはそうです、坐禅もろくに組んだことがない人間が語れるような言葉ではないです。
禅師の本を直接読むと、言葉の一つ一つがずっと直裁で、ユーモラスで、深いです。
禅の世界では「飾る」という発想がありませんから、何一つ無駄な言葉がありません。

神道のカンナガラの世界とも重なる部分も大いにあるような気がしてます。
もちろん、滝の世界とも大きく重なる部分があると思っています。

なんだか面白くなってきました。