仏教では「一切衆生悉有仏性」と言って、すべての人に本来仏性が備わっていると言います。
もともと仏であるのが、様々な煩悩で心鏡が曇ってしまっていているから、仏性が隠れてしまう。
自ら曇ってしまうから、曇った目で見、曇った耳で聞き、曇った意識で物事を判断し、迷いの道に入り込む。
簡単に言うとそういうことだと思います。
本来、太平安楽な生命の実相から離れて、不安、恐れ、怒り、妬み、退屈、怠惰などの感情に囚われて、
迷いの心のままに世の中のイメージを作り上げ、その自分の作ったイメージに自ら捉えられてしまう。
世の中を地獄と観ずれば、目の前に地獄が映ります。
世の中を極楽と観ずれば、目の前は極楽です。
ところが、人は目の前の自分で作ったイメージ映像を現実のものと思い込むものだから、そこから抜け出せない。
そこで、仏教では、すべては本来「空」なのだ、と説くわけです。
「空」というのは、「無」とは微妙に違います。
「空」は人の思いや想念しだいで、いかなるイメージも一瞬にして映像を結ぶ「場」です。
「怒り」の想念を抱いて世の中に目を転ずる時、世の中は許すべからざる腐敗と不義に溢れかえって見えます。
「喜び」の想いで世の中を見るとき、街行く人々は楽しげで、空は美しく、風が心地よいです。
長々と何が言いたいのかというと、我々が現実と思っている世界は、自分の思いの投影でしかないということです。
極楽も地獄もあるとかないとかの話ではなく、人があると思えばある、ないと思えばない、ということです。
ですから、地獄があると思えば、本当に地獄は世界としてそこにあるようになるのです。
そして、地獄があると思う世界観からは、恐れや恐怖や不安という感情が生まれます。
人の心に生じた感情はリアルですから、その感情に縛られて生を送るということになります。
聞くところによりますと、冥界、幽界というようなものは元々はなかったらしいです。
しかし、長年、人は地獄を創造し、鬼を想像し、悪魔を想像しているうちに、その想像するエネルギーが凝固して、
リアルな世界像を「空」の場に結んだものらしいです。
これはどういうことかというと、本来すべては「空」と感じることのできるいわゆる悟った人には、
冥界、幽界からの干渉というのは不可能になりますが(すべては人の迷ったイメージの集積にすぎませんから)、
迷ったイメージに囚われている人には、冥界、幽界からの干渉はリアルにありえるということです。
迷ったイメージを現実だと思っていれば、迷ったイメージであるところの幽界、冥界の存在も現実になってしまうということです。
ですから、禅では霊とか悪霊とかを相手にしません。
「魔境」の一言で退けます。
本来すべては「空」と知った者が、霊とか鬼とか迷いの想念の塊を相手にするはずもないのです。
「外から人の身体に入るもので人を汚すことが出来るものはなにもなく、
人の中から出てくるものが、人を汚すのである。 (中略)
人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。
淫らな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別など、
これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである」 (マルコ福音書7-15~20)
このキリストの言葉も同じことを言っています。
人の中から出てくるもの、それが迷いの想念であり、それこそが自分自身も他人をも汚すのだ、と。
「外」というのは本来「空」で絶対の中立です。
そこに人は色々な勝手な思いで、「色」を付け、好きだとか嫌いだとか言うわけです。
ちょっと説明が下手で、分かりづらいかもしれませんね。
要するに、誰々がこうだから悲しいだとか、誰々のせいで腹が立つだとか、すべては迷いの妄言だということです。
すべて、自分が抱く想いのフィルターを通して世の中を見ているからこその幻の感情です。
じゃあ、どうすればいいのか。
一気にすべてが「空」だと観ずる悟りの世界に行くのは難しそうです。
でも、そういう自分勝手な幻想で自分は世の中を見ているのかもしれないな、という自分の感情・感覚から一歩離れて見てみる。
そういう辺りから、自分の世界観を見直してみるという辺りからなら、始められそうです。
もともと仏であるのが、様々な煩悩で心鏡が曇ってしまっていているから、仏性が隠れてしまう。
自ら曇ってしまうから、曇った目で見、曇った耳で聞き、曇った意識で物事を判断し、迷いの道に入り込む。
簡単に言うとそういうことだと思います。
本来、太平安楽な生命の実相から離れて、不安、恐れ、怒り、妬み、退屈、怠惰などの感情に囚われて、
迷いの心のままに世の中のイメージを作り上げ、その自分の作ったイメージに自ら捉えられてしまう。
世の中を地獄と観ずれば、目の前に地獄が映ります。
世の中を極楽と観ずれば、目の前は極楽です。
ところが、人は目の前の自分で作ったイメージ映像を現実のものと思い込むものだから、そこから抜け出せない。
そこで、仏教では、すべては本来「空」なのだ、と説くわけです。
「空」というのは、「無」とは微妙に違います。
「空」は人の思いや想念しだいで、いかなるイメージも一瞬にして映像を結ぶ「場」です。
「怒り」の想念を抱いて世の中に目を転ずる時、世の中は許すべからざる腐敗と不義に溢れかえって見えます。
「喜び」の想いで世の中を見るとき、街行く人々は楽しげで、空は美しく、風が心地よいです。
長々と何が言いたいのかというと、我々が現実と思っている世界は、自分の思いの投影でしかないということです。
極楽も地獄もあるとかないとかの話ではなく、人があると思えばある、ないと思えばない、ということです。
ですから、地獄があると思えば、本当に地獄は世界としてそこにあるようになるのです。
そして、地獄があると思う世界観からは、恐れや恐怖や不安という感情が生まれます。
人の心に生じた感情はリアルですから、その感情に縛られて生を送るということになります。
聞くところによりますと、冥界、幽界というようなものは元々はなかったらしいです。
しかし、長年、人は地獄を創造し、鬼を想像し、悪魔を想像しているうちに、その想像するエネルギーが凝固して、
リアルな世界像を「空」の場に結んだものらしいです。
これはどういうことかというと、本来すべては「空」と感じることのできるいわゆる悟った人には、
冥界、幽界からの干渉というのは不可能になりますが(すべては人の迷ったイメージの集積にすぎませんから)、
迷ったイメージに囚われている人には、冥界、幽界からの干渉はリアルにありえるということです。
迷ったイメージを現実だと思っていれば、迷ったイメージであるところの幽界、冥界の存在も現実になってしまうということです。
ですから、禅では霊とか悪霊とかを相手にしません。
「魔境」の一言で退けます。
本来すべては「空」と知った者が、霊とか鬼とか迷いの想念の塊を相手にするはずもないのです。
「外から人の身体に入るもので人を汚すことが出来るものはなにもなく、
人の中から出てくるものが、人を汚すのである。 (中略)
人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。
淫らな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別など、
これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである」 (マルコ福音書7-15~20)
このキリストの言葉も同じことを言っています。
人の中から出てくるもの、それが迷いの想念であり、それこそが自分自身も他人をも汚すのだ、と。
「外」というのは本来「空」で絶対の中立です。
そこに人は色々な勝手な思いで、「色」を付け、好きだとか嫌いだとか言うわけです。
ちょっと説明が下手で、分かりづらいかもしれませんね。
要するに、誰々がこうだから悲しいだとか、誰々のせいで腹が立つだとか、すべては迷いの妄言だということです。
すべて、自分が抱く想いのフィルターを通して世の中を見ているからこその幻の感情です。
じゃあ、どうすればいいのか。
一気にすべてが「空」だと観ずる悟りの世界に行くのは難しそうです。
でも、そういう自分勝手な幻想で自分は世の中を見ているのかもしれないな、という自分の感情・感覚から一歩離れて見てみる。
そういう辺りから、自分の世界観を見直してみるという辺りからなら、始められそうです。