風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

帰還兵

2007年10月13日 | 雑感
ぼくが高校生くらいの時に流行った小説家にJ.D.サリンジャーという作家がいます。
「ライ麦畑でつかまえて」が有名で、村上春樹が最近新たに翻訳しなおしたそうです。

その小説の主人公も感受性が鋭く、世間との折り合いがうまく付けられない人ばかりです。
その感情の捌け口をシニカルさと笑いのめすユーモアで昇華しようとする姿が痛々しいです。

現実のサリンジャーも極度の人間嫌いで、ボストンだかどこだかの自宅に篭って、人前に姿を現さなくなりました。
その後、ぷっつりと作品を発表していません。

いかにも小説家というような奇人振りでした。
今の時代はそういう奇人振りというのは受けないような気もしますが。
奇人が奇人でいられるというのは、ある意味懐が深い時代だったのかもしれません。
今は、出版社が流行作家を企画で作り出す時代ですから、
人付き合いの悪い人間は世に出るのが難しいかもしれません。

グラス家の兄弟がそれぞれ順番に主人公となり、いくつかの小説が有機的に絡まって大きな物語となります。
長男の名は、シーモアだったと思います。
「バナナフィッシュにうってつけの日」という短編に登場します。
新婚でハネムーンに来ているのに、シーモアの心は深いところで大きく傷ついています。
もちろん新婦はそんな心の傷は思いもよらぬことで、ユーモラスに新婚カップルのちぐはぐな会話が交わされます。
そのユーモアが痛ましいのです。

おそらく、シーモアは戦場からの帰還兵だったのではないかと思われます。
取り返しの付かない傷を心に受けていたのだろうと思います。

と、20年以上も前に読んだ小説の話ですから、記憶が曖昧なまま書いています。
たしか、シーモアはあっけなく自殺してその短編は終わるのだったと思います。

苦悩を苦悩として表現しないところに、サリンジャーの真骨頂がありました。
たわいもない言い争いやら、皮肉やら、冗談の合間に、ホンのちらりと人間の心の深遠を垣間見せます。
むき出しの感情を嫌う欧米人流の表現ですね。

同じく帰還兵の心境を描いた名作としては、ヘミングウエィの短編で「兵士の故郷」と「心が二つある川」があります。
ニックものと呼ばれる一連の短編群で、ヘミングウエィの自伝的要素の強い作品です。
こちらのほうは、ユーモアさえも削り取られています。
一切の感情描写もなく、乾いたセリフと必要最小の的確な情景描写のみで、帰還兵の冷えてしまった心が浮き彫りにされます。

帰還兵というのは、地獄の戦場からせっかく帰ってきたのに、かつての故郷を永遠に失ってしまったことを知る人間です。
友人たちとふざけ合い、希望に胸を膨らませたかつての自分が、戦場で死んでしまったのを知ってしまう人間です。
故郷にいながらにして、心は永遠に戦場をさ迷うことを知ってしまう人間です。

この辺りの切なさは映画「ディア・ハンター」にもの凄く上手に描かれていました。

たぶん、戦場での経験というのは情を込めるとかえって表現できないのかもしれません。
いかなる感情も凌駕する経験なのだと思います。
淡々と描けば描くほど、そのどうしようもない残酷さが浮き上がります。

どうも戦争というのは人の心を劇的に凍結させる破壊的力があるようです。
日本の戦後の帰還兵の方々も、心を封印し、なにも語ろうとすることなく、日本の復興に命を注ぎました。
きっと言うべきこと、言いたいことはたくさんあったのでしょうが、言葉が見つからなかったのだと思います。
今は言葉はそこらじゅうにてんこもりに溢れていますが、語るべきこと、語られるべきことはホンの少ししかないような気がします。

ぼくの今日のブログも書くことがないなぁと思いながらダラダラ書き続けたものです。
平和というのは良かれ悪しかれこういう状況なのでしょう。

合掌