今日ある方が来て、去る10月17日というのは重要な日だった言います。
なんでも宇宙のかなたからある波動が地球に注がれ、人の意識に重要な影響を与える日がその日から始まったというのです。
2年ほど続くのだそうです。
思ったことが実現するスピードが今までで考えられないくらい早まるのだそうです。
好ましい思念ばかりでなく、マイナスの思念でも実現するスピードが加速されるそうです。
そうだとすると、日々何気なく自分が思うことに気をつけなければいけませんね。
10月17日というのは、ぼくにとってはヨーロッパから帰国した日でした。
時差ぼけもあり、あまりポジティブではありませんでした。
なんとなく、怠けようとしていたところがあります。
怠けようと思ったとたん、だらだらとした日々が実現する。
これは気をつけなければいけません。
自分の思うことというのは、修正しようと思えば修正できます。
とはいえ、自分の思うことを修正するというのが一番難しいのですが。
自分の思うところの正しさや優しさや正直さというのをいったん棚上げして、自分の立つ道がどこへ向っているのかを
確認する必要があります。
自分の思うところの正しさや優しさや正直さというものは、大抵はそう思っているに過ぎないことが多いです。
ぼくらの滝の導師の滝行における指導の眼目は「思いを捨てる」ということに尽きます。
寒い、早起きが辛い、酒が飲みたい、肉が食べたいなどなど、人は際限なく勝手な思いに振り回されます。
寒かろうがなんであろうが、滝に打たれると決めたら滝に入るわけです。
滝に入ってしまえば、寒くてとても入れないなどと思っていたことなど、吹き飛ばされる以外にないのです。
早起きだって、断酒、断肉だって、それを苦痛と思う思いがなくなれば、なんでもないことになります。
人の執着するそれぞれの「思い」などというのは幻想だということを身をもって知るわけです。
幻想だからといって、人は「思い」から自由になれるわけでもありません。
日常に戻れば、人はたちまちあれこれの「思い」に振り回されます。
ただ、「思い」は幻想だと知っていれば、よりましな「思い」を持とうとすることはできるわけです。
ネガティブな思い、「できない」「いやだ」「つらい」「無駄だ」、こういった思いは人を身動きできなくします。
「できる」「たのしい」「好きだ」「すべてはうまくいっている」、こういった思いは人を解放します。
ネガティブな思い=幻想に振り回されることをやめ、ポジティブな思いを幻想することで前向きに進めます。
幻想に囚われるのではなく、幻想を利用して現実をポジティブなものに変えていくということは可能です。
「思念」が現実化するスピードが加速されているということでしたら、なおさら、今なにを思うかが大事になります。
幻想は幻想です。
どうせなら、明るく楽しい幻想を持って、豊かな現実を作っていった方がいいのに決まっています。
豊かな現実が自分の周りに出来上がるのを待っていても、おそらくその時はやってきません。
楽しいことを思い、楽しい現実を作っていくということなのでしょう。
幻想は幻想だから無意味なのではなく、人はポジティブな幻想を楽しむことにより初めて現実を作っていけるのかもしれません。
名作とされる映画はたくさんありますが、そのような映画の多くは人に勇気と生きる喜びを与えてくれます。
幻想は人の心の現実です。
どんな幻想(=思い)を心の中に持つか、持てるかが非常に重要になってきます。
厳しいというか、あまり好ましくない現実世界に打ちひしがれるよりも、心の中に豊かな世界を自由に作ることができます。
思いというのは、考えすぎると駄目になります。
理屈が勝ちますと、思いというのは枯れてしまいます。
自分の心の中でくらい、好き勝手に、自由に、楽しくなるような思いを巡らせることに上手になってもいいのかもしれません。
なんでも宇宙のかなたからある波動が地球に注がれ、人の意識に重要な影響を与える日がその日から始まったというのです。
2年ほど続くのだそうです。
思ったことが実現するスピードが今までで考えられないくらい早まるのだそうです。
好ましい思念ばかりでなく、マイナスの思念でも実現するスピードが加速されるそうです。
そうだとすると、日々何気なく自分が思うことに気をつけなければいけませんね。
10月17日というのは、ぼくにとってはヨーロッパから帰国した日でした。
時差ぼけもあり、あまりポジティブではありませんでした。
なんとなく、怠けようとしていたところがあります。
怠けようと思ったとたん、だらだらとした日々が実現する。
これは気をつけなければいけません。
自分の思うことというのは、修正しようと思えば修正できます。
とはいえ、自分の思うことを修正するというのが一番難しいのですが。
自分の思うところの正しさや優しさや正直さというのをいったん棚上げして、自分の立つ道がどこへ向っているのかを
確認する必要があります。
自分の思うところの正しさや優しさや正直さというものは、大抵はそう思っているに過ぎないことが多いです。
ぼくらの滝の導師の滝行における指導の眼目は「思いを捨てる」ということに尽きます。
寒い、早起きが辛い、酒が飲みたい、肉が食べたいなどなど、人は際限なく勝手な思いに振り回されます。
寒かろうがなんであろうが、滝に打たれると決めたら滝に入るわけです。
滝に入ってしまえば、寒くてとても入れないなどと思っていたことなど、吹き飛ばされる以外にないのです。
早起きだって、断酒、断肉だって、それを苦痛と思う思いがなくなれば、なんでもないことになります。
人の執着するそれぞれの「思い」などというのは幻想だということを身をもって知るわけです。
幻想だからといって、人は「思い」から自由になれるわけでもありません。
日常に戻れば、人はたちまちあれこれの「思い」に振り回されます。
ただ、「思い」は幻想だと知っていれば、よりましな「思い」を持とうとすることはできるわけです。
ネガティブな思い、「できない」「いやだ」「つらい」「無駄だ」、こういった思いは人を身動きできなくします。
「できる」「たのしい」「好きだ」「すべてはうまくいっている」、こういった思いは人を解放します。
ネガティブな思い=幻想に振り回されることをやめ、ポジティブな思いを幻想することで前向きに進めます。
幻想に囚われるのではなく、幻想を利用して現実をポジティブなものに変えていくということは可能です。
「思念」が現実化するスピードが加速されているということでしたら、なおさら、今なにを思うかが大事になります。
幻想は幻想です。
どうせなら、明るく楽しい幻想を持って、豊かな現実を作っていった方がいいのに決まっています。
豊かな現実が自分の周りに出来上がるのを待っていても、おそらくその時はやってきません。
楽しいことを思い、楽しい現実を作っていくということなのでしょう。
幻想は幻想だから無意味なのではなく、人はポジティブな幻想を楽しむことにより初めて現実を作っていけるのかもしれません。
名作とされる映画はたくさんありますが、そのような映画の多くは人に勇気と生きる喜びを与えてくれます。
幻想は人の心の現実です。
どんな幻想(=思い)を心の中に持つか、持てるかが非常に重要になってきます。
厳しいというか、あまり好ましくない現実世界に打ちひしがれるよりも、心の中に豊かな世界を自由に作ることができます。
思いというのは、考えすぎると駄目になります。
理屈が勝ちますと、思いというのは枯れてしまいます。
自分の心の中でくらい、好き勝手に、自由に、楽しくなるような思いを巡らせることに上手になってもいいのかもしれません。