風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

イジメ

2006年11月08日 | 雑感
福岡の三輪中で起きたイジメ自殺事件は解決の方向に向っているとは言いがたいようです。
なんか、複数の関係者にいろいろ隠蔽しなければならないような理由がぞろぞろあるみたいで、
死んだ親御さんはやりきれない思いで一杯でしょう。
風化させてはなりませんね。

罪(つみ)という言葉は、包む(つつむ)という言葉から来ていると聞いたことがあります。
要は、隠すということから罪深さが発生するということなのだと思います。
失敗は誰にでもありますが、それを隠すと罪深さが生まれる可能性が高まります。
大体、隠して発展的な良いことが生まれる可能性というのはきわめて低いです。
第三者にダメージを与えるようなことはあえて言わないということはありますが、それは隠すということではないでしょう。

江戸っ子でも武士でも正直さが最も好まれた気質でしたが、
今の企業にしても学校にしてもなんにしても、隠蔽するしか能がないような有様です。
隠蔽というのはもっとも無能な戦術です。
教育現場が隠蔽などという姑息な手段を選んだら、教育の名に値しないグロテスクな現場になります。
グロテスクな教育現場で、グロテスクなイジメが起き続けています。

そういえば、ぼくも小学2年の時に虐められました。
山裾のド田舎から仙台に転校しました。
訛も仙台のそれとは微妙に違い、着ている服もダサかったわけです。
毎日取っ組み合いの喧嘩になりました。
教室の床をごろごろ転げまわって喧嘩してましたが、授業開始のチャイムだかベルだかが鳴ると、
何事もなかったようにみな席に着きました。

なぜいじめられるかというような事を考えた記憶はありません。
子供ながらに異質のものは排除しようとする虐める側の心を理解していたものと思われます。
学校に行くのが嫌になるというようなこともなかったように思います。
毎日学校に行っては、なんかの因縁をつけられることをきっかけに取っ組み合いの喧嘩が始まりました。
子供ですから、引っかくとかつねるとかの攻撃ですから、たいしたダメージではありません。
良く覚えていませんが、数週間から一月ぐらいそれが毎日続きました。
因縁をつけられれば、ぼくも飛び掛って行ってましたので、相手も飽きたのでしょう、いつの間にか虐めはなくなりました。

面白いもので、それまで遠巻きに様子眺めをしていた他のクラスメートたちも、
虐めがなくなってからぼくに話掛けてくるようになりました。
今も昔も子供の心が変わったとは思われません。
子供を取り巻く大人の方が変質したんだと思います。
親も教師も教育委員会も、そのままありのままの状態を直視するということができなくなっているように思えてなりません。
教師間の間でも、親を取り巻く環境の中でも、好き嫌いがあり、虐めに近いことがあり、
正義なんて言葉が死語になっている現実があるわけです。
子供たちが異常になっているわけではありません。
異常を異常と認め、それを是正しようとしなくなった大人たちが異常なんです。

ある程度の虐めは失くすことはできません。
人も動物ですから、いろいろ野蛮さも持ち合わせています。
野蛮さを発揮しあうことでいろいろ鍛えられることもないではないです。
ただ行き過ぎたら厳しく断固と諌める、親ならぶん殴るというような大人の不在が虐めを陰湿化させているのでしょう。

それにしても、この期に及んでもまだ隠蔽しようとする人間がいるということが驚きです。
時間を稼いで、関係者を片っ端から転属やらなんやらして、問題をうやむやにしようとしているみたいです。
教育現場がここまで腐ったら、ちょっと言葉を失います。