風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2006年01月21日 | 雑感
ライブドア周辺がずいぶんとキナ臭くなっています。
巨額の資金が動いていましたからね。
キレイなお金だけではないのでしょう。

えーと、明日から出張に出まして、水曜日の夜に戻ってきます。
なんか去年の暮れからずっと慌しいです。
長い間、お客さんが驚くくらいに超のんびりやってきたので、こういう感じはなかなかあれです。

ここ何日か12時間寝ています。
寝すぎという感じはなくて、ちょうどいい感じです。
幸せです←バカ
なんか気が落ちているような落ちていないような、中途半端な感じです。
こういうときは、考えること、思うことも中途半端です。
物事をスパスパ切っていく切れ味に甚だ欠けます。

人のコンディションって毎日ころころ変転します。
同じ日がありません。
同じ日がないから苦しいのか、同じ日がないから楽しいのか。
その人の置かれた状況によって、意見が分かれるところです。
いずれにせよ、いちいち自分のコンディションごときで一喜一憂しないことが大切かと思います。

人にもコンディションにも波があるように、人を取り巻く状況にも波があります。
関わっている人の波もあります。
多種多様な波が重なり合って、今この瞬間の自分という現象があるわけです。
そういうのって面白いなーと思う反面、しんどいなーと思う自分もいます。
いろいろな波が押し寄せるなかで、自分を見失うと、波に溺れるのでしょう。
どうも、押し寄せる波に抵抗すると溺れやすいようです。
身を任せてしまえば、少なくとも身は浮きます。
水面から顔を出し、周囲を冷静に眺め回す余裕はあったほうがいいのかもしれません。

なにをしてもうまくいく潮目のこともありますし、反対に何をしてもど壷にはまる潮目もあります。
どちらにせよ、あわてて手足をばたばたさせず、潮目を読んで、次に来る波の予想を立て、果敢に対処する。
そういう風になれるものでしょうか、分かりません。

禅などでよく使われる「無」という言葉があります。
これはもちろん「虚無」という意味ではありません。
「ある」ということもないけれども、「ない」ということでもない不思議な境地です。
全てが発生すると同時に、全てが消え去る場とでもいいましょうか。
もともと発生もしないし、消え去るということもないという風にもいえてしまうので、なかなか捕まえにくい境地です。
人の精神的なもの、心的なものがそのなかで明滅を繰り返す場であるのは間違いなさそうですが。

で、その「無」なのですが、「身をまかせきる」というところに、その境地を垣間見ることが出来るみたいです。
「一切の計らいを捨てる」といってもいいし、「無念無想」も同じことです。
そういう境地に入れば、どんな波がきても溺れるということはなくなります。
ビシッと潮目が読め、天空に輝く太陽を見ることも出来るし、風の匂いさえ嗅ぐことが出来ます。
そんな感じなのかなぁと思っています。

でも、まぁ、波に溺れかけてじたばたするのも人生の醍醐味であったりするわけですけどね。

あ、そうそう、アイカさんのコンサートのチラシが出来上がりました。
みなさん、お見逃しなく。
このチラシ、最後にはプロの方がちゃっちゃか作ってくれました。
ぼくは「カトリック教会」であるべきところを「カソリック教会」と伝えていて、土壇場で訂正してもらいました。
アイカさん、デザイナーのMakikoさん、大変ご迷惑掛けました

こうして、いつだってじたばたするわけです(笑)