風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

決意

2006年01月27日 | スピリチュアル
「わが炎によって 暁を招来せよ」  ヘルダーリン

そうです、今日の日めくりです。
またまた、シブイ言葉です。
自分の一人の力なんか社会にとっては何の力にもなりえないと侮ってはいけません。
大体、一生のうちで人間は何人くらいの人と関わって生きていくのでしょうか。
家族、親戚、友人、職場、取引先、先生、趣味仲間と広げていったら、少なくとも数百人にはなりそうですね。
その一人一人が関わる数百人か数千人の人たちに、ぼくやあなたは確実に影響を与えます。
挨拶の仕方一つでも影響を与えます。
受身で関わっているよりも、積極的に関われば、さらに影響力は増します。
その奥に、愛というか菩提心があれば、さらに関わりは豊かなものになります。
その愛なり菩提心が本物になればなるほど、その豊かさは深まります。
そういうことだと思うのです。

自分の力を侮らず、愛や菩提心を本物に磨き上げたのが、キリストや仏陀でなかったかと思います。
彼らは社会を変えようというよりも、出会う人一人一人を救っていきました。
そうして救われた一人が、さらに出会う人一人一人に師の教えを説きました。
そうして、瞬く間に、愛や菩提神の教えが広まりました。

自分が出会う人一人一人との関係がすべてのベースになっているんですね。
一対一の関係からすべてが始まっています。
そこをはしょってというか、侮っては、どこにも道は通じなくなるのではないかと思います。

ぼくなんかはすぐにどこか遠くの理想論に逃げ込むのが得意中の得意です。
目の前の対人関係から目をそむけ、逃げ出すのが得意です。
こんなんだから、どこへも行けなくなってしまいました。

好き嫌いもありますし、相性もあります。
めんどくさいという怠け心もありますし、どうだっていいやという歪んだ心もあります。
それをそのまま自分に許して、自分の心というものに諦めをつければつけるほど、歩くべき道を見失っていきます。
怠惰と退廃が残ります。

炎を燃やすか消すかは、一人一人の決意にかかっています。
世の中には、一見、人のせっかくの決意を踏みにじるような出来事に充ちているかのようにも見えます。
それでも、炎を燃やすか消すかは、一人一人の決意にかかっています。
愛や菩提心こそが世の灯火だと信じる勇気と信仰心がないと、なかなか決意を保てません。

決意というものがまったくないぼくが言うのもなんなのですが。

「障り多ければ 徳多し」という言葉があったと思います。
自分の障りの多さをそんな言葉で慰めます。

どんなに業が深かろうと、障りが多かろうと、道は歩いていかなければなりません。
次々と目の前に立ちはだかる自分の至らなさを思い知りながら、それでも前に進むという決意、
それ位はどうやら持て始めたような気はしています。