風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2006年01月07日 | スピリチュアル
昨日、なんか心身とも重苦しい気がしたので、帰宅後風呂場で水シャワーを浴びました。
年末から風邪を引いていたので、滝行も休みがちだったので、久しぶりの水はそれはもう厳しい冷たさでした。
いきなり頭から入ることはさすがに出来ず、手足を十分冷やしてから全身に浴びました。
みるみる身体が真っ赤になりました。

でも、さすがに水行、入った後は身体もぽかぽかとしてきて、余分な雑気というか、邪気がすっと落ちました。
今夜も入ろうかなと思っています。

ところで、遺伝子です。
ヒトの遺伝子の大半は眠ったままなのだそうです。
これは脳細胞の大半が使われていないままなのと呼応します。
今の生活様式では、その遺伝子に活動のスイッチがオンにならないということなのでしょう。

火事場の馬鹿力ということがあります。
子供を救うという圧倒的な必要の前で母親のか細い手が、重い箪笥を持ち上げたりします。
物理的に出来るか出来ないかを問う余裕も、必要もない時、不可能を可能にします。
子供を救うという迷いのない一念が、眠っていた遺伝子の目を覚ますのかもしれません。

逆に、現代社会で生きる人々の頭は迷いで一杯です。
しようか、すまいか、出来るだろうか、無理だろうか、得するだろうか、損するだろうか。
何をするにも、迷いとためらいと疑念で一杯です。
頭が迷えば、遺伝子とても勝手に目覚めるわけにはいかないのでしょう。

念ずれば花開くというように、迷いのない念というのは、もしかしたら物凄い力を持っている可能性があります。
「求めよ、されば与えられん」にしても、「思考は現実化する」にしても、その力の可能性を言っているのでしょう。

とはいえ、迷いのない一念というのが、分かりやすいようでいて、なかなか掴み所がないものです。
出世したいだの金持ちになりたいというのは、「念」と言うほどの所までまで昇華することは滅多になく、
身勝手な欲の損得計算であることが多いものです。

欲や感情や損得計算を離れた「念」というものはありえるのでしょうか。
ありえます。
自分のこと以外でしたら、大いにありえます。
大切な人の幸せを迷うことなく念ずることは出来ます。
これが自分のこととなると、欲や感情や計算がたちまち働きだし、念に雑音が混じってきます。

他者の幸福を念ずること。
それが本当に出来た時、眠っていた遺伝子どもがむくむく起きだし、脳細胞も活性化するのかもしれません。
その段階に入ったとき、人はいわゆる「奇跡」というものを行うのかもしれません。

「愛の人」キリストが行った奇跡の数々は、そういうことの証なのかもしれません。

そうだとすると、先行きは明るくなります。
「自分」というものに捉われなければいいだけなのです。
自分というものの欲や感情や損得に無駄に振り回され続けるのをやめればいいのです。

他人の幸福を念じ、その幸福の実現を図る道具だと「自分」というものを見ればいいのです。

何事も言うは易しで、行うは難しです。
でも言うほど、難しいことでもないような気もしています。
じゃぁ、お前から手本を見せてみろといわれれば、ゴメンナサイと謝るしかありませんが(笑)