風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2005年10月12日 | 雑感
今日は隣町に昼過ぎから行ってきます。
なんだか趣旨のはっきりしない滝仲間の飲み会があるので、ついでに仕事を入れました。
ので、ブログを書いてしまいます。

「われわれは足もとを固めなければならぬ。溺れているものは他人を救うことはできぬ」 マハトマ・ガンジー

必殺、日めくりです(笑)
溺れているもの同士は、同情というか憐憫という湿った動機で、同病相哀れむ状態になりがちです。
そうなりますと、お互いに立ち直ることが難しくなります。
片方が立ち上がろうとするのを無意識に足を引っ張ってみたり・・・

溺れている人は、大抵は頭が混乱しているもので、自分が溺れていると認識していない場合もあります。
自分が溺れかけているにもかかわらず、他人に助言し、説教をたれ、励ましたりなんかすることもあります。
溺れかけている人を他人が救うことは、おそらくできません。
溺れている人が、自ら溺れていることを知り、岸辺に泳ごうと決心しなければ、
投げ与えた命綱も、浮き輪もおそらく役に立ちません。
岸辺にいるものは、適切に泳ぐべき方向を示し、命綱や浮き輪の所在を示すことはできますが、
一緒に水に飛び込んで、溺れるものを助けようなどと考えると、巻き添えになります。

人を救うためには、自分がしっかり大地に足をつけていなければなりません。
自分が溺れている人と一緒になって濁流に流されていたのでは、救うどころではありません。
大地にしっかり立って、命綱や浮き輪を投げ与えるなり、方向を指示したりしなければなりません。

で、そのよって立つべき大地とは何か。
実績と信頼と菩提心でしょう。
溺れるものは、そのとき初めて大地の上に立つものの声を聞くのでしょう。

と、ここまで書いてくると、大地に堂々と立っている人間が驚くほど少ないのではないかと、思うわけです。
ほとんどの人が知らず知らずのうちに、濁流に流されているのではあるまいかと勘ぐります。
すくなくともぼくは、実績と信頼と菩提心に乏しいわけです。

もうひとつ日めくり。

「心によって偉大だった人々を私は英雄と呼ぶ」 ロマン・ロラン

これはその通りで、付け加えるべき言葉もありません。
金儲けや女漁りに成功した人を、英雄とは呼びません。
心の底では誰もが欲する金や女をいくら手に入れても、英雄とは呼ばれません。
欲を心とは呼びません。
では、心とは?

と、ここまで書いて時間になりましたので、また明日。