風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

ニセモノ

2005年10月15日 | 雑感
先日自分の持っている和の骨董品を専門家に見てもらったところ、ほとんどがペケでした。
慣れないものに手を出してはいけませんね。
でも、その業界のいろいろな興味深い裏話を聞けて面白かったです。
仏像は偽物というわけではなかったので、今後も扱っていこうかと思っています。
仏像はそもそも偽物を作れません。
作れるくらいなら、わざわざ偽物など作らなくても、現代の立派な仏師となれるからです。
ただ、製作年代の誤魔化しはよくあります。
鎌倉以前のものが特に人気が高いのですが、室町か、南北朝か、鎌倉かなんてことは素人は分かるはずもありません。
それから、買いたい人が美術品として持ちたいのか、あるいは手を合わせる対象にしたいのかでも、
そのものの価値も違ってきます。

古い仏像を見てしまうと、今の仏具屋においてある大量生産の仏像はまるでおもちゃです。
東南アジアかどこかの町工場で作らせているのでしょう。

そういえば、先日京都に行った時、有名な仏師でもあり、僧侶でもある西村公朝師が再建した、
アダシノの愛宕念仏寺にも立ち寄りました。
境内には善男善女が彫ったたくさんの石仏があるのですが、どれもが彫った人の人柄がしのばれて、
心和む空間となっていました。

ものには作り手の心が必ず染み込みます。
昔の日本人は、その心の染み込み具合を愛でたり、評価していたに違いありません。
近代以降の大量生産品にも、その酷薄な心が染み込んでいるわけです。
だから、惜しげもなく捨てられるのです。

で、自分の専門以外だとなぜもかくも容易に偽物を掴ませられるかというと、
その作られるものにどんな心が込められたのかを読み取れないからです。
床の間のない空間に暮らし、茶の湯もかじったことがなく、風流な時間というものを知らない人間が、
掛け軸やら、茶陶器を作る際に込められる心というものを、全く理解していないからです。
理解していないまま、いつか誰かが評価したものと同じようなものに眼を晦ませ、
聞いたことのある作者の名前に耳を晦ませるのです。
そういう眼や耳を晦ませる余計な情報や知識がない分だけ、外国人のほうが目が高いのかもしれません。

どんなものの場合でもそうなのですが、中途半端な知識というのが、一番損な買い物をします。
中途半端に知識を持っている人ほど、自分の知識にこだわります。
そのこだわりの裏をかかれると、ころっと騙されます。

ものに限りませんね。
人を見る場合もそうかもしれません。
学歴、経歴、容姿などにころころ騙される人が後を立ちません。
学歴、経歴、容姿は、間違いなく「その人」の表れではあるのですが、人を見る「見方」というのを、
マスターしていないと偽者を掴むかもしれません(笑)
ここら当たりは一生勉強なんでしょうけれども。

なんか偽者が、偽者の見分け方の講釈をたれているようで、甚だ恐縮至極です(笑)