風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

ヴードゥー

2005年10月04日 | スピリチュアル
 「ハイチは、カリブ海の西インド諸島、キューバとジャマイカの東方にあるエスパニョーラ島の
西部を占める小さな共和国である。島の東部はドミニカ共和国だ。ハイチはスベイン領、フランス領を経て、
1804年に独立した世界最初の黒人共和国。

 本書は、1988年以来、約20回も現地取材をしたというフォトジャーナリストによるハイチ人賛歌、
ヴードゥー賛歌の書である。本書によると、「ヴードゥーとは、『ルア』とよばれる数おおい精霊との交流によって
個人や共同体が抱える問題を解決し、社会生活を理想的なものに近づけようとするハイチの民間信仰」である。
もともとヴードゥーは、ハイチ住民が奴隷として連れてこられた故郷、中・西アフリカのアニミズム(精霊信仰)から
発生したと考えられている。」

以上は、ネットで見つけた「ダンシング・ヴードゥー( 佐藤文則著)」の書評の一部です。

実は今、「虹と蛇(ウェイド・デイヴィス著)」という本を読んでおり、ヴードゥーに興味を持ちました。
「虹と蛇」は、アメリカ人の文化人類学・植物学の学者が、医用麻酔薬に応用できないかという目的で、
ゾンビ伝説のあるハイチに行き、人を仮死状態にするような薬物を探すルポルタージュです。
デイヴィスは、ゾンビ伝説は伝説にとどまらず、医者に死を認定され墓に入れられ、
魂を抜かれたような状態で生き返った数件の実例を確認します。
そして、そのようなことを可能にする薬物とは何かと、探し回ります。
結局は、その薬物の主要成分はフグ毒(テトロドトキシン)であることが判明するのですが、
著者の興味は、その成分云々よりも、憑依や呪術といった、ハイチの民衆文化に根付いた風習に移っていきます。

様々な儀式で、日常のようにハイチの人々は霊と交流します。
神官や呪術師みたい存在の人間も、社会のいたるところに暮らしています。

フランスの統治時代、夥しい数の黒人が奴隷船にすし詰めにされて、西インド諸島や南北アメリカ大陸に連れてこられました。
他の地域の黒人たちは、長年暴力的に支配されているうちに、彼らの生まれ故郷の信仰、風習を薄れさせていきましたが、
ハイチに渡った黒人たちは、早い時期にジャングルの奥や山の上に逃げ隠れ、結社を作り、憎むべき支配者と戦いました。
1804年の黒人による共和国の独立というのは世界史的にもきわめてまれなケースです。
それゆえ、彼らは彼らのアフリカの信仰、風俗をいまだに色濃くハイチの地に染み込ませることが出来たのです。

おそらく、古代の世界では、いたるところで音楽と踊りと儀式と呪術によって霊と交信していたはずです。
その古代の世界を垣間見ようとするときに、ヴードゥーのあり方は大変参考になると思います。
古事記の世界の、アフリカ版みたいな世界が、今もハイチに繰り広げられています。

いろいろ、興味は広がるのですが、ひとつだけ。
デイヴィスは、憑依とか呪術とかが有効なのは、その社会が呪術とか憑依という現象を受け入れている時だと説きます。
例として、19世紀には、西洋の上流社会の女性の間では、「失神」ということが「流行」ました。
そういわれれば、19世紀の小説などを読むと、何でこんなことでと思うようなところでも、女性がよく失神します。
何かショックなことがあると、女性は失神するものだという共通認識がそのころにあり、
共通認識があるから、実際に当時の女性はかくも容易に失神したのだ、と言います。
現代で心理的要因で失神する女性はめったにお目にかかれません、というかぼくは見たことがありません。

つまり、憑依・呪術・霊などを現実として受け入れている共通認識があるところでは、
憑依・呪術・霊などが現実化するということです。
現実化という言葉がふさわしいかどうかは分かりませんが。

そういう当時の共通認識に対する理解を欠いたまま、神話やら、説話やら、バイブルやらを読んでも、
戯言の羅列にしか読めないのではないかと強く思います。

で、ヴードゥーでも、滝は魂を清めるものとして聖地とされています。
これも大きなヒントですね。
写真は、滝に入り恍惚となっているハイチの青年です。