風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

商売

2005年05月08日 | 雑感
今日も昼過ぎから休日出勤です。
なんとか預金通帳の入力は終わりました。
先がものすごく思いやられます。

何か引かれるものがあって、今朝も滝に行きました。
水が昨日より冷たく、水量も減っていませんでした。
気合を入れて入りました。
気合がうまく入ったときは、お不動様の顔が優しく見えます。

唐突な話ですが、こういう商売はすぐに資金がショートします。
一般的に買付資金が現金で前払いですし、やっと売れても、お客様はわがままで、
なるだけ支払いを先に延ばされます。
10回払いは当たり前です。
ある時払いもあります。
ローンを組んでくれと頼んで、はい分かりましたといってくれるお客様は、ものすごくまれです。
そうすると、各方面への支払いのための金策が頭の中心に来ます。

このあたりのお客様はそういうわがままな買い方をデパートに教え込まれています。
それに加えて、ぼくは押しが弱いです。
お金のことになると、とたんに弱気です。
お金に苦労していると、お金に対して弱気になります。
お金をコントロールする意欲や意志といったものが、へしゃげています。
そのほかの点では、不必要に強気なのですが。

金持ちになりたいとは思ったことはあんまり無いのですが、
仕事をする上での貧乏は、「貧すれば鈍する」の言葉どおりです。
なんとしても乗り越えなければならない厚い壁です、ぼくにとっては。
乗り気がしないのですが、いずれ超えなければ、いい仕事が出来る日は来ません。
アイデアは結構一杯持っているのですが、実行に移す段階にどうしても至りません。
これっばかりは、滝に入ったからといって、改善できるポイントではありませんし。
まず決算をてきぱきと片付けろとの多数の声が、今聞こえました。
そうします。←謙虚

なんかこういう話は、書いてても読んでても面白くないですね。




2005年05月07日 | スピリチュアル
今朝も滝行。
雨上がりで、久しぶりに水量が多く、気持ちよく入れました。

仲間が入っているのを待っている間に、滝行の意味を改めて考えていました。
なかなか言葉にするのは難しいです。
まずは、「水」ということの意味。
地球上の自然界ではエネルギーの変換が水を通じて行われています。
雨雪になり、雲になり、氷になり、地表を潤し、温度調節をし、栄養分を行き渡らせます。
人体の血の循環と同じですね。
植物にとってはまさに水は血液なわけですし。

それから、水には浄化の作用があります。
毒素を洗い流し、緩やかに分解させ、解毒します。
地に舞う埃を吸い、地表に溜まったゴミを洗い流します。
あらゆる不純物を大いなる海に流し込み、そこで長い時をかけて有効物質に再生させます。

つまり、滝に入るということは、浄化作用のあるエネルギーを全身で浴びるということですね。
うーん、なんかこじつけくさい気もしないでもありませんが。

慢心や気のゆるみがあると、滝は、異質で厳しい荒れ狂った濁流となります。
気を引き締めて、覚悟を決めて入ると、音も冷たさも消えた静かな静謐になります。
身も心も預けきらないと、滝はそのエネルギーの流れに入る者を拒みます。

「水」というのは不思議です。
たしか、固体(氷)になったときに液体より軽いのは水だけだったように覚えています。
局地の氷が浮かないで、海底に沈んでしまったら、たちまちに地球は冷え切ってしまうのだそうです。
すべてを受け入れ、すべてを溶かし、また純粋な姿で天にのぼり、地表に降り落ちます。
「水」の謎と生命の謎はリンクしています。

それから、水の結晶の写真集が売れていますが、水は人の「気」を感じ取り、
その結晶の姿に完璧に表現します。

滝に入り続ければ、もっと何かが分かってくるかもしれません。
そのときはまた何か書きます。
滝行の話というよりも、「水」の話になってしまいました。
でもなんか、「水」を解かないと、滝行も解けないような気がしています。

なかなか興味深いことは尽きないのですが、帰りたくなったのでこの辺で。




味噌汁

2005年05月06日 | 雑感
いよいよ決算の作業に取り掛かりました。
なんか書類の一部がごっそり抜け落ちています。
間違って捨ててしまったのかもしれません。
やれやれ、です。

今、預金通帳を打ち込んでいます。
その後、現金、売り上げ、買い掛け、在庫などを打ち込まなければなりませんが、
必要なときに必要な書類が往々にして無いので、参ります。
毎日すれば5分くらいで済む手間を惜しんだおかげで、毎年この時期はぐたぐたに疲れ果てます。
学習能力がサル並です。

税理士さんからは遅くとも4月末までに提出しろといわれていたのですが、
この分だとあと一週間はかかりそうです。
めげずにがんばろうと思ってはいるのです。

もう帰りたいのですが、外は雨が降っています。
傘を持ってきていません。
でも、帰ります。

今日の昼はマックの百円シリーズで済ませました。
チーズバーガーとチキンバーガーとアップルパイ。
おいしそうなネーミングですが、食べるとやれやれ、です。

豆腐の味噌汁が食べたいです。
知り合いから、無添加の自家製味噌を買っていますから、ぼくの味噌汁はうまいです。
昔、味噌汁の代わりにサイダーを飲みながらご飯を食べる友人がいましたが、
どうなんでしょうか。
ご飯を食べるという行為の様々なディティールに対する評価基準がぼくとは違っているわけで、
食生活に対する評価基準が違っていると、自ずと生活全般に対する評価基準が違ってくるわけで。

だからどうしたと聞かれても困るんですが。
まだ雨はやみません。
でも、帰ります。

2005年05月02日 | スピリチュアル
人は常に間違い、間違いを誤魔化すために悩みます。
正しい感じ方をせず、正しい話し方をせず、正しい聞き方をしません。

自分の都合にとらわれ、相手の思惑におもねり、人々の間の力関係を計算し、
そのまま、あるがままの姿を捻じ曲げ、歪めます。
自分が世界を歪めておいて、世界が歪んでいると不平を言い、泣き言を言います。

世界は見る人によって、まるきり違って見えます。
意地悪な人には、世界が意地悪い策略で満ちているように見え、
びくびくしている人には、世界がおそろしいものに見えます。
絶望している人には、世界は凍りついた暗黒に思われ、
だらしのない人には、世界はあまりにも機械的に動いているように思われます。

世界を移す鏡が汚れていれば、
世界が汚れて見えるのです。

人は鏡。
赤ん坊の穢れを知らぬ鏡には、何を見ても、きらきら光るワンダーランドが映し出されます。
すべてがパワフルで、興味深く、おいしそうで、何にでも触って、なんでも口に入れようとします。

そういう赤ん坊の鏡も、見る見るうちに汚れて、歪んでいきます。
時々拭いて、両側から引っ張って歪みを取ればいいのですが、
汚れるまま、歪んだままで放りっぱなしにされます。
物心がついたころには、十分に汚れ、歪んで、自分の鏡に写った世界を悲観します。

そのうち、穢れ、歪んだ世界がありのままの世界だと思うようになってしまいます。
まっすぐに映った世界というものを、胡散臭げに遠ざけます。

そうして穢れ、歪んだ人間同士が、穢れ、歪んだ世界を映しあいます。

今夜、鏡の前に立ち、ぼくは何をそこに見るのでしょう。
目を逸らして、苦笑するしかなさそうです。