風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

大道

2005年05月20日 | 雑感
昨夜、遅くに内村鑑三の「如何にして余は基督教徒となりしか」(岩波文庫)をパラパラと読んだのですが、
何よりも感じるのは、彼、或いは彼らのひたすらな生真面目さです。
あれかこれかの分裂に、ひたすら立ち向かっていきます。
まあ、いいかという曖昧さを自らに許さぬ厳しさを己に課していきます。

こういう心性を持った人たちが、幕末を駆け抜け、明治維新を成し遂げたのでしょう。
旧体制に対する忠義と、新時代を切り開いていかなければならない使命感の分裂に志士たちは悩み抜き、
没落していく武士階級を横目に、日本国のためという大義に奉じた明治の青年たち。
内村鑑三にあっては、それまで自分の身体に染み込んでいた、祖国の神仏への慣れ親しみを断ち切り、
より理念的に整合性が取れているように思えたキリスト教へと帰依していく。

思うに、その精神風景を支える大きな柱として、彼らには男たるもの「大道」を歩まねばならぬという、
儒教的な強い使命感があったのでしょう。
今時、「大道」を歩むなどと言ったら笑われますが、彼らは大真面目で「大道」を探し続けました。

漫然と日々を空費している人間に、地平線にまっすぐ向かっている「大道」を目にすることはありません。
つくづく、そう思います。
他人からどう思われようとも、「大道」を歩んでいる自覚がある人間の内部には、
深い誇りと、なんというか、生きがいめいたものを感じるに違いありません。

そう考えると、「大道」という理念から、遠く離れてしまっているぼくなどが、
生きがいが見つからないなどと愚痴るのは、とんだお間抜けな話です。
農民には農民の、職人には職人の、商人には商人の大道があったはずです。
それぞれがそれぞれの道に誇りと生きがいを見つけるすべを代々教え継ぎました。

自分を取り囲む「世界」は、自分の「思い」が作っているとの認識をますます強めて生きつつあるぼくには、
理念=大道なき生き方は、そろそろ限界を迎えつつあるように思えてなりません。

もちろん、理念というものの持つ危険性も視野に入れなければなりません。
自分勝手な理念を持った人間は、この世で最も危険な存在となりえます。
だからこそ、師から弟子へと「教え継ぐ」という伝統を持つことが、その危険性を回避するために有効でした。

限りなく、個人個人の理念がばらばらになり、自分ひとりが歩く道さえ、見つけることが出来がたくなって
来ているこの時代、明治初期まで残っていた「大道」などという理念が受け入れられるとも思いません。

さて、どのような道を歩むことが、ぼくなどに可能なのでしょうか。