風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

神秘

2005年05月11日 | スピリチュアル
今、ブログはものすごい勢いで増え続けていますが、
試しに「精神世界」や「滝行」というキーワードで検索してみましたら、
おびただしい数のブログがありました。

みな求めて、求めきれず、迷ったその先が見えないといった感じです。
このブログなんかまさにそうなんですが(笑)

即身成仏にせよ、煩悩即菩提にせよ、色即是空、空即是色、すべてその通りなのだと思います。
想念はその通りだと思っても、すべてを投げ出してそこに行こうとしない「我欲」が、
最後の最後までじたばたします。
じたばたしているうちに、年を取り、ため息をつき、天を仰ぎます。

「我欲」のゲームには、仏様のおっしゃるとおり、苦しみが付き物です。
幾ら苦しくても、そのゲームに参加し続けることを、諦めきりません。
それだけ、そのゲームは、魅惑的で、心をひきつけます。
魅惑こそ悪魔の囁きであり、心こそ妄想だと、仏様はおっしゃいます。
その通りなのだと思います。

その通りだと思いながらも、ゲームに参加しつつ、弥陀の誓願を一心に信じるのが、真宗なのでしょう。
ゲームに参加することをきっぱりと捨て、心身脱落、空を観じ、空に座するのが禅宗なのでしょう。
ゲームをゲームと割り切り、心身の修行により、仏の意に沿いきることによって、
仏と一体となるのが密教なのでしょう。

どの道も、仏の世界に確かに通じているのでしょう。
ところが、我々凡夫には、自分の足で歩むには、どの道も険しすぎ、複雑すぎるように見えてしまいます。
自らは、これ以上複雑なゲームはないというほどの複雑怪奇な「我欲のゲーム」には、
喜んで参加しているのですが。

その通りだと思いながらも、その通りだと思う世界に入れない苦しみ。
これを地獄というのかもしれません。

しかし、家族や伴侶を愛し、その平安を願う心、現実の世の中で立身出世を願う心、おいしい自然の恵みを
食べたいと思う心。
それらの心を、煩悩として断ち切る勇気は凡人にはなかなかもてません。
執着しなければ言いといわれても、執着をなくして、世界に参加することはなかなか至難の業です。

だからこそなのでしょうが、古来からの修行は一度心身が死んでしまうような神秘的体験を求めます。
一度死んでしまえば、執着に執着する心が脱落するのでしょうか。

「ありのまますべてが仏だ」と知るために、すべてを捨てるという道を通る。
ここが我欲のゲームのロジックでは、絶対に解けない神秘なのでしょうね。