風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

積もる感情

2011年10月17日 | スピリチュアル

身体に長年の疲労や老廃物や毒素が蓄積するように、心にも解消されない悩みや痛みや後悔が蓄積されます。
それらが積もり積もって、あるとき無気力や絶望感やらに襲われます。
それを解消する方法としては、どんなものがあるのかと考えてみます。

薬やアルコールは論外です。
さらなる後悔を蓄積させるだけです。
旅行やレジャーで気を紛らわすという方法も、気を紛らわすだけで、積み重なったマイナスの感情を昇華する力はありません。
心療内科や精神科に通ったところで、適当な薬を処方されるだけです。

マイナスの感情というのは、プラスの感情を持って正面から対峙したときにのみ、初めて解消されるもののようです。
何しろ自分の心が相手ですから、一切のごまかしが効かない相手です。
無気力や絶望感に囚われているときに、どんなプラスの感情を持って、自分の心に蓄積されたマイナス感情に対峙できるでしょうか。

そんな否定的な感情に支配されているときに、自分の心と対峙するというようなハードな闘いは無理です。
勝ち目がありません。
何もかもが嫌になってしまうのがオチです。
それではどうすれば良いのか。

誰かに相談したところで、いつかどこかで聞いたり読んだりしたことのある言葉が返ってくるだけです。
要らぬ慰めや心配は帰って息苦しくなるだけです。
自分の心の問題は、誰かに頼れば頼るほど、問題解決の道筋から外れていきます。
それではどうすれば良いのか。

一旦、自分の心を捨てきることです。
何とかしたいという気持ち、救われたい気持ち、辛いという感情、どうしようもなさで得体の知れない怒りにも似た感情。
そんのものを一切合切無条件に捨てきることです。
無条件というのがポイントです。
心を「無条件」という虚空にも似た空間に放り投げてしまいます。
そうするとその心が各種様々な否定的な感情で痛んでいるのが見えてきます。
もう限界を超えて心が痛みにもだえているのが見えてきます。

さて、それからどうしたらいいのでしょう。
目をこらしてその痛みの一つ一つを見ていきます。
一つの痛みに焦点を当てたら、その痛みと同化して、その痛みを再体験します。
なぜその痛みが起きたのか。
誰によってその痛みは引き起こされたのか。
そうして、なぜ自分はそれを痛みとして経験しようと選択したのか。
それを痛みとしてではなく、何かの学びとして経験することは出来なかったのだろうか。
何かの学びの経験にそれをすることができたなら、それは痛みではなく「喜び」に変えることが出来たのではないだろうか。

そうやって一つ一つの痛みを「喜びの経験」に変換していく作業が成功したなら、その痛みの炎症は鎮まります。
こう書いていても、とても面倒くさく、根気の要る作業になります。
でも、これが人知で出来る心の癒やし方の限度であるように思います。

その他に方法はないのかといえば、あると思います。
どの宗教に限らず、「祈り」の世界に没入することです。
「祈り」の世界には、その世界に完全に入り込めさえすれば、「自分が、自分は、自分の」という自我の世界が消えますから、
自分の感情の蓄積も消える可能性があります。
ただ、現代の理屈っぽい人間にとって、「祈り」の世界は近そうで実際はとても遠い世界です。

お勧めは、やはり「禅」といいうことになりそうです。
マイナスの感情も、プラスの感情も、自分自身をぶん投げた地平からその世界は開けます。
(人の自我が)何かがあって欲しいと思えば、何もない世界でもあり、何もなくても良いと思えば、
なにひとつないものはないという豊穣の世界が広がります。
自我の関与できない無限の世界です。
そこに入れば、心に蓄積された感情などは心のウンコが積み重なっただけです。

まぁ、言葉は汚いですが、そんなもんです。
適当に書き始めたら、最後は禅のお勧めになりました。
チャンチャン。

 


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