分厚い雲に覆われ、なんだか薄暗い1日でした。
秋と言うよりは初冬という感じです。
そろそろコートが必要となりそうです。
このところ新聞・テレビをまったくといっていいほど見ていませんので、世の中の動きがよく分かりません。
それでも、ニューヨークでハリケーンの被害が大きかったことや、中国の万里の長城で日本人観光客が雪嵐に
見舞われたことなどはネットの情報で知ることができます。
どちらも死者を出す惨事になったようです。
ここでも何度も紹介した良寛さんの言葉です。良寛が文政十一年越後・三条の大地震の際に、
与板の山田杜皐あて書いた手紙からの抜粋です。
「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事なく、親類中、死人もなく、めでたく存じ候。
うちつけにしなばしなずてながらえて かかるうきめを見るがわびしさ
しかし災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ」
現代語ふうに言えば、
「地震は本当に大変でしたね。自分のところの草案は無事で、親類も死人も出ず、何よりでした。
流れに任せて死ねば死ねば良いと思っていたが生き長らえて このような有様を見ることのわびしさよ
しかしながら、災難に遭うときには災難をそのまま受け止めるのがよいでしょう(災難から逃れよう、
逃れようとしないこと)。死ぬときにはしんだらいいでしょう(そうする以外にどうしようがありましょうか)。
こういう態度が、災難を災難として身に降りかかることから身をかわすことのできる心の態度です。」
災難にあい、不幸な事態に陥ることを軽視したり、どうでもよいと思っているわけでは全然ありません。
いろいろな出来事に遭い、一喜一憂する「憂き目(うきめ)」を超越する仏の道をすらりと説いているだけです。
大変さを大変でないと妙な解釈をするのではありません。
大変さを大変と全身で受け止めながらも、起き来ること起き来るがままに、受け流していくこと。
これは決して受け身的な心の態度ではありません。
積極的に出来事の裏に流れる真の流れに身をゆだねるという極めて能動的・積極的なあり方です。
真の流れとはなにかと言えば、正法、仏法、如是法、言い方は様々ですが、仏の説いた教えです。
生死を超越した大生命の流れのあり方です。
今風に言えば、宇宙のエネルギーシステムとか、そんな風な言い方に敷衍できるかもしれません。
まぁ、仏教の一端を知っていますと、何か災害が起こったときに、慌てふためいたり、怒ったり、悲しんだりという
一辺倒から抜け出すことは確かにできます。
生死に囚われず、日々の生死をとことん大切にしていく。
そんな感じです。
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