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なにかを思うということは、想念というエネルギーをなにかに集中させることです。
その集中先は、恋人であったり、お金であったり、冒険であったり、あるいは憎しみであったり、怒りであったり、人様々です。
一方、禅では極力、想念というエネルギーを使うことを排していきます。
これがなにを意味するかというと、なりたい状態や欲しい物や人に執着するなということなのだと思います。
執着という強力なエネルギーを手放すとなにが起きるのか。
おそらく、ただ無条件の祝福があります。
自分が存在すること。
ありとあらゆるものが存在すること。
「在る」ということが祝福であること。
それを思い知るのだと思います。
赤ん坊は泣きます。
おそらく、身体的に未成熟なゆえの不快感がひっきりなしに赤ん坊を襲っています。
それでも、雲の切れ間に陽が射すように、赤ん坊は時折顔一杯の笑顔を浮かべます。
「在る」という瞬間を実感している笑顔です。
この世は想念の強靭さを求められ、思考の中断を馬鹿にされる仕組みになっています。
宮沢賢治はデクノボーと呼ばれることを望みました。
残念なことに、ぼくにその覚悟はまだありません。
まだまだ信仰心が足りません。
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