風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

東京Ⅱ

2017年02月12日 | 雑感

去年だったか一昨年だったか、正確には東京ではありませんが、田園都市線上にある街のデパートに一週間強出張しました。
もう、人生史上最悪な体験でした。
「九州の物産展」というテーマのイベントで、仙台屋という名前で仙台名物の牛タン弁当を出品です。
東北の物産展ではないのです。
九州の物産目当てに来るお客さんから見れば、完全にバッタものです。
「牛タン?はぁ~?」
ひたすら針のむしろ状態で、一週間強を耐え抜きました。

ま、それは当方の戦略、判断ミスです。
そういう失敗もありましょう(負け惜しみw)。
ただ、その一週間強の体験で思ったのは、仕事上の成功云々を離れたことです。

デパートには従業員のための食堂兼休憩室というのが必ず備わっています。
持ち場持ち場、あるいは店舗店舗で交代で食事を取ったり、休憩したり、タバコを吸ったりします。
従業員の90パーセントくらいの人たちが、一人で淡々と食べた後、テーブルに突っ伏して寝ているか、スマホをいじっています。
持ち場が違ったり、あるいは店舗や業種や業態が違ったりすれば、お互いに話すこともないのもわかりますが、
挨拶どころか、目も合わせなければ、相手の存在すら眼中にないかのようです。
うわ~すごい職場だな、とその職場に入った当初に思いました。
表向きは、一流ブランドの店員であったり、老舗の味を提供するスタッフであったりするわけです。
裏では、冷め切って、くたびれきったさびしい人たちでした。
家に帰れば、暖かい家族が待っているのかもしれません。
それが普通だと割り切っているのかもしれません。
でも、ぼくにとってはひたすら異様でした。

ぼくの宿泊しているホテルは、そのデパートから3、4駅離れているところにありました。
そのわずかな期間ながら、電車内でもまったく同じ状況が繰り広げられていることに気がつきました。
ほとんどがスマホです。
だれも無礼なことはしませんが、誰もが誰にも関心を持っていません。
関心を持たないというよりも、自分を他人からブロックしています。
人の多すぎる首都圏にいて、見知らぬ他者に関心を持つなどというのは無理難題だということは分かります。

その物産展に参加しないかと誘ってくれたある組織の方が言うには、そのデパートはとても客層がよいので評判とのことでした。
確かに、身なりはこざっぱりしていて、お金に不自由している感じはありませんでした。
とくに、悪口を言うようなところはありません。
でも、九州の客層に慣れてしまったぼくからすると、話していてクソ面白くないのです(悪口やんw)。
なんというか、自分の殻から一歩も出ず、余計なことはしゃべらず、相手や商品の点検のための質問はする、といった感じです。

デパートの食堂兼休憩室で感じたことが、電車でも、デパート内でも同じように繰り広げられていました。
見た目は皆さん小奇麗で、整っていました。
感じたことは、この人たちはなにを産み出しているのだろうか、ということです。
とてもとても失礼な物言いですが、そう感じたのだからしょうがありません。
小金を持って、中途半端な知識を持って、ブランド品もって・・・。

ものを産み出すためには、どうしても軋轢が必要です。
自分が生きる道筋と他者が生きる道筋の相克の上に創造が成り立ちます。
軋轢がないものは、創造ではなく模倣です。
東京は、模倣することが自己防衛のための主流となってしまっていると強く感じました。
ただ単に「個性」を売り物にすることさえ、模倣です。
個性なんぞは鉢の中の金魚にだってあります。

おそらく、TVの影響が一番強いのが東京です。
TVの呪縛からどんどん自由になり始めている人が増えているのに、東京を東京とならしめているある種のエネルギーはあります。
その正体は明かされつつありますが、語ろうとすると面倒くさすぎるので割愛します。

なんにせよ、今東京は外人に大人気です。
人気の理由もよ~く分かります。
焼き鳥屋なんか、この辺りの焼き鳥屋よりずっと安くて、おいしくて、感じがいい店がいっぱいあります。

なにかもどかしさが残ります。
東京もそこに住んでいる人たちも、もちろん悪いということではありません。
悪いわけがありません。

「江戸」がどうであったかを研究するとヒントがある気がします。

その手始めとして、「落語」はとても有効だと確信してます。

 

 



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