風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

夢の行くへ

2017年04月05日 | ストーリー

女は腕時計にちらりと目をやった。3度目だ。
「帰ろうか」とぼくは言った。
彼女はまっすぐ前を向いたまま小さくうなずいた。
ぼくはバーテンに声をかけ勘定を頼んだ。
バーテンは鹿のような目をした、鹿のように顔の小さな若い男だった。
「聞いてくれないのね」と彼女は言った。消え入るような声だった。
彼女の横顔を見ると、あらゆる表情が消えたような白い顔をしていた。
「聞いてたよ」とぼくは言った。
「なにを?」

ぼくはこの店に入ってからの彼女との会話を思い返した。
会うのが3年ぶりで、彼女のヘアスタイルが変わったことに驚いた。長い髪を刈り込みに近いショートヘアにしていた。
イメージがまったく変わったこと、でも似合っていることをぼくは彼女に伝えた。彼女はどうでもよさそうにありがとうと言った。
彼女の仕事のこと。
大手の税理士事務所の事務をしている。数字をきちんと管理するのは苦にならず、むしろ好きだということ。
3人いる税理士先生たちはみないい人で、顧客も余裕を持った大人ばかりだということ。
そして彼女の腕時計のこと。
古色のついた珍しい形の時計にぼくが興味を持ち聞いてみたのだ。
南京虫と呼ばれるタイプの小さな文字盤の1950年代のオメガで、2年前に肺がんでなくなった母親の形見だということ。

「わからない。ちゃんと話は聞いてたよ」
バーテンが伝票を持ってきた。彼は伝票をこちらに差し出したまま、ぼくの顔をじっと見ている。
「もう一杯飲んでもいい?」とぼくは彼女に聞いた。彼女は返事をしなかったが、ぼくはバーテンにバーボンを頼んだ。
バーテンは小さくうなずくと氷を割り始めた。このバーではみんなが小さくうなずく。

「ちゃんと言ってくれないとわからんよ。なに?」
彼女は黙ったままカウンターの板目を見つめている。なにか頼むかと聞いても彼女は首を横に振る。
バーテンがバーボンを持ってきて、それを受け取り、一息に飲み干した。
「帰ろうか」と聞いた。二度目だ。
彼女は黙る。
「いい加減にしろよ。言いたいことがあれば言えよ」
「言ったじゃない」

ぼくは彼女の横顔また見た。能面のままだ。
ぼくは飲みたくもなかったが、バーボンをのお代わりを頼んだ。7杯目か8杯目だ。バーテンはうなずいた。小さく。
彼女とぼくの間に沈黙の壁がどんどん厚みを増した。
バーテンがきちんと冷えたバーボンを持ってきて、それを一口すすり、ぼくは口を開いた。
「ほんとによくわからない。どうした?」彼女の横顔をきちんと見た。
彼女の顔をきちんと見るのはその日で初めてだったかもしれない。
「もういい」彼女はまっすぐ前を見据えていた。
ぼくはバーテンに再び勘定を頼み、立ち上がった。彼女にタクシーを呼ぼうかと聞いたが、無言だったので先にバーを出た。
バーの扉の前で5分ほど彼女が出てくるのを待ったが、彼女は姿を現さなかった。ぼくはエレベーターに乗り、下に降り、
飲み屋街の喧騒をすり抜けるように駅へと向かった。

 

 

 

 

 

 


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