風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

無宿人

2007年09月10日 | スピリチュアル
前回のブログで書いた台風時に中州に取り残される人々は、そのほとんどがホームレスの人たちだったようですね。
情報が遮断された中、みるみる水嵩が増し、濁流の中に取り残されたみたいです。
不謹慎なものの言い方をしまして、すみませんでした。

ホームレスの人たちを昔流で言ったら、無宿人なんでしょうね。
前にも書いたかもしれませんが、昔だったら山や森の所有者が一々決まっていないところもたくさんあったでしょうから、
木の実を食べ、渓流の水を飲んで、飢えを凌いで生きていくこともできたでしょうが、
今は森や山でも迂闊に入れば不法侵入で逮捕されてしまいますから、ホームレスの人たちも必然的に都会の公園や中州に
集まってこざるを得ないのでしょう。

一時ぼくも果てはホームレスにでもなるしかないかなぁ~、などと思っていたこともありますから、
今の世の中でどうしたら無宿人になることが可能なのかを真剣に考えたこともありました。
都会でダンボールの家に住む以外に、どうも方法はなさそうです。
無宿人のロマンティシズムの妙味が著しく損なわれます。
いつ死んでもかまわないが、人の目に触れず、人の世話にもならず、ひっそり死んで行きたいという願いは無理です。
今時そこらで野垂れ死にすると、大いに人に迷惑をかけそうです。

なんやらかんやら窮屈な規則や法律でがんじがらめの世の中です。
そういう規則や法律からはみ出た人間にとっては、甚だ生き辛い世の中ではあります。
だからと言って、規則や法律を緩めたら、なおさら世の中の混沌と腐敗は加速するであろう今日この頃です。

かつてのネイティブ・アメリカンを手放しで美化するつもりはありませんが、
彼らは文明の便利さよりも自由であることを選んだのは確かに言えることだと思います。
馬で風を切って草原を走り回る自由を手放そうとはしませんでした。
勇敢な戦士たちを大勢殺し、決して肥沃とはいえない居留地に彼らを押し込めた結果、
彼らの大部のものが無気力にアルコール中毒や薬物中毒に陥りました。
その後遺症は今でも継続しています。
ある種の人間にとっては、「誇り」を奪うことが致命的になりうるのです。

「誇り」などはかなぐり捨て、自分のために何かを得ること=自利に奔走する姿が当たり前の世の中になりました。
何千年も説かれ続けてきた「利他」とが「隣人への奉仕」とかはあいも変わらず風前の灯です。
居留地にうずくまって、ウイスキーをたらふく飲んだ目で、青い空をぼんやり眺めている人たちの気持ちが
少しはわかるような気がします。

終わりのない競争を必要とし、法律や規則で人の意志をがんじがらめに縛り付け、勝者は傲慢になり、敗者は不安に脅える。
そんな修羅の社会が当然として今の人たちは生きています。
しかし、地球は本来天国として作られたのではなかったのか。
それを訴えたのが、ブッタでありキリストであったのではないでしょうか。
そんな現状はどうであれ、天国は心の中に作れます。
でも、本来は、現実のこの地球も天国であったような気がしてなりません。
火や、水や、風や、大地を見ていると、それらはまさしく天国の構成要素足りえます。
それを汚しまくった人間の想念の元はなんだったのかを突き止める必要がありそうです。

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