風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

宗教組織

2007年09月11日 | 雑感
宗教は地上の苦に満ちた生活からの解放を目指したものと言えるでしょうが、
人間を苦に縛り付けたのもまた宗教だったのかもしれません。
正確に言えば、宗教そのものではなく、宗教組織が作り上げた教義が、ですが。

仏陀もキリストも平明で聞く者の心に染み入るような話をしていたのではないかと思います。
それをかくも小難しく、身に付きがたい教えとなったのは、仏教教団、キリスト教会そのもののせいなのではないかと思います。
宗教に限らず、「組織」というものになると必ず派生する信者のコントロール術が生まれます。
「組織」が拡大すればするほど、教えそのものよりも、信者コントロールのための規則だの戒律だのが発達します。
規則だの戒律だのが発達すれば、それを破った時の「罰」に対する恐れが生まれます。
「恐れ」を持ちながら、「利他行」だの「隣人への奉仕」だのをしようとすれば、心は純一性を保てません。

もちろん、そんな反省からか、宗教組織ないから純一性への回帰を求める運動もありました。
例えば「禅」などは徹底的に心の本来の透明性を確認しようとします。
しかし、「禅」でも教団になれば、その求道の徹底性が薄れていくのは避けられないのでしょう。
おそらく、キリスト教でもプロテスタントなどは原点回帰の運動であったという側面を持つのでしょうが、
教団経営となるとやはり「組織」の弊害というのが、教えの鮮烈さを失わせていくんだと思います。

具体的にどのように「教え」が変化していくかというと、「救いと解放」がメインであったはずの教えが、
「戒律と脅かし」に変わって行きます。
自分の心のあり方でこの世が浄土(天国)になるという教えから、「~すると地獄に落ちる」という教えに変容して行きます。
喜びと安心であった教えが、不安と恐れを与える教えに変容して行きます。
心が喜びと自由で充たされるはずが、教えを守れない信者としての自分への自責と不安の念に駆られていきます。
信仰心が足りないからだ、と更に教団にすがり付いて行きます。
自分と天との直接の会話が大切であったはずが、いつの間にか教祖や仏像やマリア像を拝むようになります。
自分の心の点検と浄化が必要であったのに、いつの間にか信じれば救われるという依頼心が強くなっていきます。
そんな感じでしょうか。

その辺りを気づいた人間(例えばルター、ニーチェ)は教会を激しく攻撃しました。
道元禅師は中央から遠ざかり、良寛さんは山に篭りました。
そして今では宗教そのものに不信感を抱く者が大方である時代となりました。
仏陀やキリストは間違っていることを言っているとは思えませんが、教会や寺を信頼する人がいなくなったのかもしれません。
教会や寺を信頼しないからといって、神仏の世界を信頼しなくなるというのは、本来は話は別なのですが、
宗教的なもの自体にアレルギーを持つ人が増えました。
これが教団という組織が作り出した大きな罪ではないかとぼくは思います。

神仏、天の摂理、宇宙の法則、言葉は何でもいいのですが、そういう人知を超えた仕組みがあるのではないかという
想像を巡らすことのない人間は、自分の「欲」の歯止めを持ちようがありません。
法律に触れそうだとか、人目が悪いとか、そういう自分を中心にした理屈で「欲」に歯止めをかけるくらいでしょうか。
言うまでもなく、自分の「欲」に振り回される状態が苦しみであり、心の陰りです。
宗教の本来の教えはその目先の「欲」からの解放を目指したものとぼくは思っています。
その時々の自分勝手な都合で歯止めをかけたところで、「欲」の作り出す不足感、妬み、怒りが消えることはありません。

「欲」を消すことはできませんが、「欲」に従わなくても楽しく明るく生きる方法を宗教は説いたのだと思います。
その方法を知らないばかりに、取り付かれたように「欲」に振り回されていたのが、今までの時代だったかもしれません。
「心が喜びと自由で充たされる生き方がある」
そういう教えを、その教えを教えるべき教団組織というのが結果的に台無しにしたとするなら、その罪は深いです。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿