ぼくもずいぶんと精神世界を探索してきた方だとは思いますが、最近はその熱がだいぶ薄れてきたように思います。
興味がないということではなくて、探索をしてきてある程度の地図が頭の中でできてきたかなぁという感じです。
霊能者といわれる人たちの間で、あるいはコンタクティーと呼ばれる人たちの間で、言うことが食い違うことが多々あります。
要するにいくら探索を広め深めたところで、これ一つという世界像には行き着きません。
そういう人たちの数だけ、多種多様の世界像が提供されていると言っても過言ではありません。
ぼくは彼らがウソやでたらめを言っているとは思いません。
彼らが観ているもの、感じているもの、聞こえているものが違うのでしょう。
どんな存在が彼らに介在するのかは、彼らの個性や人格や道徳性や理解力や想像力によって違ってくるのでしょうから、
発せられるメッセージも食い違って当然だと思うようになりました。
そんななかで、どの人のどのメッセージをどれくらい信用するかというのは、
ぼく自身の個性や人格や道徳性や理解力や想像力によって選択されていきます。
もうこれは致し方のないことです。
何かで読んだ話があります。
ある未開の地の海辺に一艘の帆船が近づいたのだそうです。
ところがその地の原住民にはその船の姿が見えなかったそうです。
つまり、人というのは自分が見たものの意味やら名称を知らなければ、脳の認識の対象にならないということです。
ちょっとありえないような話かもしれませんが、そこの原住民がよほど純朴で警戒心を知らない人たちだったのなら、
ありえるかも知れない話だと思います。
自分が真理だと思う事象についても同じで、自分の個人的な経験、理解力、想像力、方向性によって、判断します。
何を真理とし、何を偽とするかは、その真実性ではなく、当人のキャラクターによる恣意的なものということになります。
例えば、宝石が美しいというのは何も万人に共通したものの見方ではありません。
美醜だけではなく、旨い不味い、善悪、真偽、なんでも個々人のフィルターを通して決定されています。
聖書を読めば誰でもクリスチャンになるわけではありません。
坐禅道場に通えば、誰でも仏性というものを掴めるものでもありません。
UFOと呼ぶしかないものを実際に見たとしても、それでも信じない人だってたくさんいます。
すべての現象自体、すべての人々に共通して認識されているのではなく、ある人には重要な事象が、
ある人にはどうでもいいことだったりするのが、現実の我々のあり方です。
同じことが精神世界でも言えるということが分かってきたように思います。
精神世界だから、きっと深遠な本物の世界が広がっていると思うのは間違いです。
人の世界よりも広く深いだけに魑魅魍魎の世界が複雑怪奇に層をなしている世界でもあると思うのです。
その世界においても、何を真とし偽とするか、美醜、善悪も同様にそれを探ろうとする個々人の資質によります。
ですから、現実世界の事象に対する判断も人それぞれテンでバラバラなように、
精神世界に対する各事象に対する判断はさらに複層化して、テンでバラバラにならざるをえません。
なにが言いたいのかというと、人は見たいものを見、知りたいものを知るだけだということです。
真実や真理というものは、当人にとっての真実や真理であり、同じものを見て同じように感じる、
つまりは同じ価値観を持つ人とのみ分かち合えるものです。
精神世界においても同じことのようです。
その人の資質と同質のものに惹かれていくだけのことです。
ただ、そういう相対的な世界観を超えた絶対的な境地がないかというと、ぼくはあると思っています。
そうなるとそういう世界を精神世界とは呼ばなくなるわけですが。
まぁ、十人十色の精神世界を覗き回って、あれこれ比較対照するというようなことは飽きてしまいました。
きりがないのです。
今でもおもしろいことはおもしろいのですが。
後は3次元的な思考法に閉じ込められた人間が、どこまで絶対的な境地に近づけるかというのが今の興味です。
滝行や禅も一つのツールです。
思考では決してたどり着けない直接体験です。
なかなか一筋縄ではいきませが。
興味がないということではなくて、探索をしてきてある程度の地図が頭の中でできてきたかなぁという感じです。
霊能者といわれる人たちの間で、あるいはコンタクティーと呼ばれる人たちの間で、言うことが食い違うことが多々あります。
要するにいくら探索を広め深めたところで、これ一つという世界像には行き着きません。
そういう人たちの数だけ、多種多様の世界像が提供されていると言っても過言ではありません。
ぼくは彼らがウソやでたらめを言っているとは思いません。
彼らが観ているもの、感じているもの、聞こえているものが違うのでしょう。
どんな存在が彼らに介在するのかは、彼らの個性や人格や道徳性や理解力や想像力によって違ってくるのでしょうから、
発せられるメッセージも食い違って当然だと思うようになりました。
そんななかで、どの人のどのメッセージをどれくらい信用するかというのは、
ぼく自身の個性や人格や道徳性や理解力や想像力によって選択されていきます。
もうこれは致し方のないことです。
何かで読んだ話があります。
ある未開の地の海辺に一艘の帆船が近づいたのだそうです。
ところがその地の原住民にはその船の姿が見えなかったそうです。
つまり、人というのは自分が見たものの意味やら名称を知らなければ、脳の認識の対象にならないということです。
ちょっとありえないような話かもしれませんが、そこの原住民がよほど純朴で警戒心を知らない人たちだったのなら、
ありえるかも知れない話だと思います。
自分が真理だと思う事象についても同じで、自分の個人的な経験、理解力、想像力、方向性によって、判断します。
何を真理とし、何を偽とするかは、その真実性ではなく、当人のキャラクターによる恣意的なものということになります。
例えば、宝石が美しいというのは何も万人に共通したものの見方ではありません。
美醜だけではなく、旨い不味い、善悪、真偽、なんでも個々人のフィルターを通して決定されています。
聖書を読めば誰でもクリスチャンになるわけではありません。
坐禅道場に通えば、誰でも仏性というものを掴めるものでもありません。
UFOと呼ぶしかないものを実際に見たとしても、それでも信じない人だってたくさんいます。
すべての現象自体、すべての人々に共通して認識されているのではなく、ある人には重要な事象が、
ある人にはどうでもいいことだったりするのが、現実の我々のあり方です。
同じことが精神世界でも言えるということが分かってきたように思います。
精神世界だから、きっと深遠な本物の世界が広がっていると思うのは間違いです。
人の世界よりも広く深いだけに魑魅魍魎の世界が複雑怪奇に層をなしている世界でもあると思うのです。
その世界においても、何を真とし偽とするか、美醜、善悪も同様にそれを探ろうとする個々人の資質によります。
ですから、現実世界の事象に対する判断も人それぞれテンでバラバラなように、
精神世界に対する各事象に対する判断はさらに複層化して、テンでバラバラにならざるをえません。
なにが言いたいのかというと、人は見たいものを見、知りたいものを知るだけだということです。
真実や真理というものは、当人にとっての真実や真理であり、同じものを見て同じように感じる、
つまりは同じ価値観を持つ人とのみ分かち合えるものです。
精神世界においても同じことのようです。
その人の資質と同質のものに惹かれていくだけのことです。
ただ、そういう相対的な世界観を超えた絶対的な境地がないかというと、ぼくはあると思っています。
そうなるとそういう世界を精神世界とは呼ばなくなるわけですが。
まぁ、十人十色の精神世界を覗き回って、あれこれ比較対照するというようなことは飽きてしまいました。
きりがないのです。
今でもおもしろいことはおもしろいのですが。
後は3次元的な思考法に閉じ込められた人間が、どこまで絶対的な境地に近づけるかというのが今の興味です。
滝行や禅も一つのツールです。
思考では決してたどり着けない直接体験です。
なかなか一筋縄ではいきませが。
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