梅雨明けかと勝手に判断して、一旦塩漬けした梅を天日に干したら、雨がぼとぼと降ってきました。
天気予報もダテではありません。
干した梅が濡れてなければいいのですが。
漬けたラッキョウがいい感じに仕上がっていました。
砂糖が足りない感じですが、ぼくにはそれでいい感じです。
このところ、神社仏閣に行った方がいいという人と、行かない方がいいという人に分かれています。
それぞれ理由があり、それなりの説得力はありますが、まぁ、人それぞれの素直な心に従うのがいいでしょう。
ぼくは行きたくなったら行きますが、行かなければならないというような気持ちはありません。
神社というのは、基本的に呼ばれていくようなところのような気もします。
呼ばれなくても行ってもいいでしょうが、なんというか、パワースポットと称して、何かを「貰う」ものではないような気がします。
何かを「上げる」ところのような気がします。
そのあたりは、人それぞれの縁やらなんやらがありますから、言葉を濁すしかありませんが。
「日月神示」が世の中で大々的になってきました。
ぼくが初めてそれに触れたのは4年くらい前だったと思います。
「日月神示」の紹介者として知られる中矢伸一の本の古本をアマゾンで片っ端から購入して、読みあさりました。
こういう本は読むに耐える人と耐えない人がいるように思います。
どちらがどうということではありません。
それでいいのだと思います。
決して実証されえない世界で遊ぶ人と、遊べない人あるいは遊ばない人。
逆に言えば、果たしてこの世の中で有史以来実証されたものなどあるのか、という議論も成り立ちます。
例えば、生命の意味。
例えば、存在するということ。
例えば、愛するということ。
これらは実証されるものではなく、方向性としてしかありえないものではないか、という議論も成り立ちます。
方向性というのは、ある段階まで到達すればよいというものではなく、無際限に突き進もうとする性向ですから、
再現性を趣旨とする実証科学の範疇を飛び出していきます。
方向性を問うのか。
確実性を問うのか。
人の態度はその辺りで分かれるのでしょう。
なんにせよ、人の人生は数十年の一度きりです。
悔いなく生きるということは、なかなか難しいことです。
なぜなら、一人の人生の生き方は、他人の生き方を参考にすることはできますが、他人の生き方をなぞることはできません。
なぞることができない以上、自分の歩いた人生に対する評価は、自分が歩みを止めるとき、つまり死ぬまで分かりません。
あくまでも自分の前に広がった風景の中を、自分の足でルートを探して歩いて行かなければなりません。
分からぬ行き先を、分からぬ意志で歩みを進める以上、はたしてそれが悔いが残るのか残らぬのかなど知りようがありません。
まぁ、どんなに自分の眼前に見慣れぬ風景が広がったとしても、そこを突き進むことを楽しめる境地になれればいいのですが。
そういう意味では、禅というのはとてもいい修行法だなと、今改めて思いました。
今ここの主人公になるというのが禅の眼目だからです。
どういう風景が目の前にあろうが、そこで自由活発に自分の生命を躍動させる。
ある意味、無敵ですね。
無敵。
いい言葉です。
天気予報もダテではありません。
干した梅が濡れてなければいいのですが。
漬けたラッキョウがいい感じに仕上がっていました。
砂糖が足りない感じですが、ぼくにはそれでいい感じです。
このところ、神社仏閣に行った方がいいという人と、行かない方がいいという人に分かれています。
それぞれ理由があり、それなりの説得力はありますが、まぁ、人それぞれの素直な心に従うのがいいでしょう。
ぼくは行きたくなったら行きますが、行かなければならないというような気持ちはありません。
神社というのは、基本的に呼ばれていくようなところのような気もします。
呼ばれなくても行ってもいいでしょうが、なんというか、パワースポットと称して、何かを「貰う」ものではないような気がします。
何かを「上げる」ところのような気がします。
そのあたりは、人それぞれの縁やらなんやらがありますから、言葉を濁すしかありませんが。
「日月神示」が世の中で大々的になってきました。
ぼくが初めてそれに触れたのは4年くらい前だったと思います。
「日月神示」の紹介者として知られる中矢伸一の本の古本をアマゾンで片っ端から購入して、読みあさりました。
こういう本は読むに耐える人と耐えない人がいるように思います。
どちらがどうということではありません。
それでいいのだと思います。
決して実証されえない世界で遊ぶ人と、遊べない人あるいは遊ばない人。
逆に言えば、果たしてこの世の中で有史以来実証されたものなどあるのか、という議論も成り立ちます。
例えば、生命の意味。
例えば、存在するということ。
例えば、愛するということ。
これらは実証されるものではなく、方向性としてしかありえないものではないか、という議論も成り立ちます。
方向性というのは、ある段階まで到達すればよいというものではなく、無際限に突き進もうとする性向ですから、
再現性を趣旨とする実証科学の範疇を飛び出していきます。
方向性を問うのか。
確実性を問うのか。
人の態度はその辺りで分かれるのでしょう。
なんにせよ、人の人生は数十年の一度きりです。
悔いなく生きるということは、なかなか難しいことです。
なぜなら、一人の人生の生き方は、他人の生き方を参考にすることはできますが、他人の生き方をなぞることはできません。
なぞることができない以上、自分の歩いた人生に対する評価は、自分が歩みを止めるとき、つまり死ぬまで分かりません。
あくまでも自分の前に広がった風景の中を、自分の足でルートを探して歩いて行かなければなりません。
分からぬ行き先を、分からぬ意志で歩みを進める以上、はたしてそれが悔いが残るのか残らぬのかなど知りようがありません。
まぁ、どんなに自分の眼前に見慣れぬ風景が広がったとしても、そこを突き進むことを楽しめる境地になれればいいのですが。
そういう意味では、禅というのはとてもいい修行法だなと、今改めて思いました。
今ここの主人公になるというのが禅の眼目だからです。
どういう風景が目の前にあろうが、そこで自由活発に自分の生命を躍動させる。
ある意味、無敵ですね。
無敵。
いい言葉です。
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