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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その108の3 『六義園』

2010年12月27日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
六義園もすっかり日が落ち、この時期、限定期間のライトアップが始まりました。
歴史的な価値だけで言えば、六義園以外にも他の庭園がいくつかありますが、当時の状態に近いままで現存しているという庭園は少ないようです。



ライトアップの写真の説明は必要ないので、この六義園を創った『柳沢吉保(1658~1714)』という人物をネット情報を基にちょっと調べてみました。
柳沢吉保は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人で、六義園は自らの下屋敷として造営した大名庭園です。
元禄8年 (1695) に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢吉保は、約27,000坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園、六義園を創ったのです。



忠臣蔵にもたびたび出てくる柳沢吉保は、万治元年(1658年)12月に、3代将軍・徳川家光の弟・忠長に仕えていた柳沢安忠の長男として、江戸は市ヶ谷で生まれました。
忠長は非業の死を遂げ、吉保の父は家光に仕えた後、、当時は館林藩(群馬県)の藩主だった綱吉の家臣となります。
その関係で、吉保18歳の時に家督を継ぐと同時に、綱吉の小姓となります。



後の5代将軍、綱吉と吉保は、ちょうど一回り離れた同じ戌年生まれの二人でした。
『天下の悪法』と言われている『生類憐みの令』は、綱吉と同じ戌年生まれのためだと、その理由として書かれているものもありますが、これには諸説あるようです。、



徳川五代将軍綱吉の治世で行われた生類憐みの法令も、綱吉の評価と共に、最近は見直されようとしているそうです。
歴史小説やテレビドラマにおける、この法令の成り立ちは、綱吉に世継ぎが出来ないことを心配した母桂昌院は、子が出来ないのは前世で行った殺生が原因なので、特に戌年生まれの将軍は犬を大切にするようにと進言したとされています。

綱吉に提案すると迷わず従い法令化し、以後、飼犬に限らず野犬に至るまで傷をつけたり、殺したりすれば、厳しい処罰が与え、庇護するものは犬のみならず、馬・猿・鳥類・虫にまで及び、食料の為に鳥獣を捕ることもできず大変苦しんだと伝えています。



学校の授業や、大手出版社の大学受験の参考書にも、『特に犬を殺傷したものは厳罰に処すという悪法と化し、民衆生活に重大な悪影響をおよぼした。』という内容で記載されています。



ネットに記載されてていた説明では、徳川綱吉は篤学の人物で、幼い頃から桂昌院に学問を勧められ、その教えを守り、将軍になってからは諸大名に経書の講義をするまでになります。
特に孝道を儒教から学び、多いに感化され、その影響で諸大名、諸旗本も武芸はそっちのけで勉強をするようになります。
その結果、林信篤をはじめ、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠などの高名な儒学者を大量発生し隆盛を極めます。



そもそも綱吉が考える生類を憐れむ心は、儒教の仁愛、慈愛の精神に基づいているとされています。
この法令も犬や動物ばかりが有名ですが、実際には社会的弱者や貧者を保護することが目的のようでした。



当時は捨子が大変問題になっていたので、捨子や子殺しを防止するために、妊婦と七歳以下の子供を登録させたそうです。
また乞食や流民についても、役人が保護する義務を規定したともあります。
この令状の最後に、 『一、犬ばかりに限らず惣じて生類、人々慈悲の心を本といたし、あはれみ候儀肝要の事』(訳:犬ばかりでは無く、人々は全ての生類へ慈悲の心で憐れみをほどこすことが必要である。)とも書かれています。



それでは何故、これほど評判が悪くなった原因は;

・これだけの法令を取り締まるためには、役人たちの仕事を増やさなければならないので、それを快く思わない者が悪評を流した。
・将軍の権力が強大だったため、迎合した役人たちが拡大解釈をして違反者を厳しく罰しすぎた。
・将軍近習の権力争いの争点に利用された。
などが原因とされています。

諸説あるので、どれが正しいのかはわかりませんが、いろいろな観点から判断することも大切なのでしょう。



綱吉は、自らが率先して政治を行うために側用人(そばようにん)という新たな役職を儲け、吉保は31歳で、格上の人たちに混じって大抜擢され、石高も1万2千石となります。
その2年後には2万石に、さらにその3年後には従四位下という官位も賜り、元禄七年(1694年)には、37歳にして川越7万2千石を賜り、城持ち大名となります。
この時には、大規模な新田開発に成功します。
その3年後には、出羽守から美濃守に出世し、松平の姓を名乗る事も許されるようになり、
やがて、綱吉の後継者に甲府藩主の徳川綱豊(後の家宣)が決まると、その後任として甲府15万石の藩主となる出世街道を辿ります。



宝永三年(1706年)、大老格にまで昇進して頂点へと達しますが、そのわずか3年後の宝永六年(1709年)1月、可愛がってくれた綱吉が亡くなります。
新将軍・家宣には、政治顧問として学者の新井白石が側近になり、吉保は引退し、駒込の別荘に隠居します。
駒込の別荘にいて、その後、7年がかりで六義園を完成させ、その風雅な庭を愛でながら、四季折々の風情を楽しむ老後を5年間過ごした後、正徳四年(1714年)静かにこの世を去ったのです。

そして、三菱財閥の創業者が購入して、後に東京都に寄贈し、六義園が都立庭園となります。
ネット上の情報で、またちょっと勉強できました。

それでは六義園より