移動中に、この角度で赤レンガを見ることは少ないのですが、裏側から撮ってみました。
これは、旧造船所か、他の倉庫跡を残しているのでしょうか?
今度、ゆっくり説明版があるのか調べておきます。
香淳皇后の御歌の石碑がありました。
横浜に生まれて育ちましたが、初めてみる石碑です。
香淳皇后って、知ってますよね。 昭和天皇の皇后陛下のことです。
ララの品って、分かりますか?
ネットで調べた知識ですが、第二次世界大戦後、わが国は、衣食住すべての面において、極端な窮乏状態になりました。
日本の子供たちを救おうと、食料品や医薬品さらには日用品などの膨大な救援物資が「ララ物資」あるいは「ケア物資」として海外のNGOの手により届けられ、1946年から1952年までの間に、1,400万人以上、当時の日本人の6人に1人の割合でその恩恵を受けたと書かれていました。
ララ物資の到着したのが、この岸壁であったようです。
最近、インターネットなどで、海外の大地震や難民に対して、なぜ日本だけが膨大な援助をしなければならないのか?、政治的に日本は利用されているのではないのか? 等の論議を呼んでいます。
50歳以上の方なら、記憶にある脱脂粉乳などの食料や衣類がララ物資だったのです。
これによって戦後の学校給食が開始されたのです。
この援助がなければ、日本の戦後の復興は遅れたのでしょう。
戦後の日本における時代背景を、やはりきちんと若い人たちにも、伝える必要があるようです。
石碑に刻まれている『とつ国』とは、外つ国の意味で、海外の国を指します。
ララ物資の実現に向けて、中心的な役割を果たした浅野七之助という人の紹介が、ネット上にありましたので、概略を紹介します。
浅野七之助
盛岡市出身の浅野七之助がサンフランシスコの自宅で死去(98歳)。
郷土の先輩、原敬の書生となり、中央大学で学んだ後、大正時代に東京毎夕新聞記者特派員として渡米、1924年から朝日新聞米国西部沿岸通信員を務めた。
サンフランシスコの代表的邦字紙「日米時事」を発刊し、社長となる。
在米日本人、日系人の権利擁護、拡張のための民権擁護協会、帰化権獲得同盟に参加した。
(戦前、日本人の土地所有を事実上禁じた法律が成立したり、日本人に帰化権はないとの最高裁の判断が出されるなどの排日の動きに対して、言論の場で対抗し、裁判闘争を支援したり、日系人の権利擁護、地位向上を求める。)
アジアの困窮者を救うために米国で設立された団体による「ララ物資」の父とまでいわれる。
日米親善と在留邦人の地位向上に貢献したことで、勲三等瑞宝章を授与された。
啄木の歌「ふるさとの山に向かいて言うことなし...」 の心境だと語ったという。
永住権は持ちながら、米国国籍は取らなかった、望郷の国際人だった。
この石碑のおかげで、ずいぶんと勉強になりました。
日本丸2世と思われる帆船を見つけて、移動します。
トッポパパ、『こら! 楽しないで、歩きなさい』
トッポ、『こっちのほうが楽なんだもん! ベェー!』
次は、日本丸2世の紹介です。
続く...................................。
これは、旧造船所か、他の倉庫跡を残しているのでしょうか?
今度、ゆっくり説明版があるのか調べておきます。
香淳皇后の御歌の石碑がありました。
横浜に生まれて育ちましたが、初めてみる石碑です。
香淳皇后って、知ってますよね。 昭和天皇の皇后陛下のことです。
ララの品って、分かりますか?
ネットで調べた知識ですが、第二次世界大戦後、わが国は、衣食住すべての面において、極端な窮乏状態になりました。
日本の子供たちを救おうと、食料品や医薬品さらには日用品などの膨大な救援物資が「ララ物資」あるいは「ケア物資」として海外のNGOの手により届けられ、1946年から1952年までの間に、1,400万人以上、当時の日本人の6人に1人の割合でその恩恵を受けたと書かれていました。
ララ物資の到着したのが、この岸壁であったようです。
最近、インターネットなどで、海外の大地震や難民に対して、なぜ日本だけが膨大な援助をしなければならないのか?、政治的に日本は利用されているのではないのか? 等の論議を呼んでいます。
50歳以上の方なら、記憶にある脱脂粉乳などの食料や衣類がララ物資だったのです。
これによって戦後の学校給食が開始されたのです。
この援助がなければ、日本の戦後の復興は遅れたのでしょう。
戦後の日本における時代背景を、やはりきちんと若い人たちにも、伝える必要があるようです。
石碑に刻まれている『とつ国』とは、外つ国の意味で、海外の国を指します。
ララ物資の実現に向けて、中心的な役割を果たした浅野七之助という人の紹介が、ネット上にありましたので、概略を紹介します。
浅野七之助
盛岡市出身の浅野七之助がサンフランシスコの自宅で死去(98歳)。
郷土の先輩、原敬の書生となり、中央大学で学んだ後、大正時代に東京毎夕新聞記者特派員として渡米、1924年から朝日新聞米国西部沿岸通信員を務めた。
サンフランシスコの代表的邦字紙「日米時事」を発刊し、社長となる。
在米日本人、日系人の権利擁護、拡張のための民権擁護協会、帰化権獲得同盟に参加した。
(戦前、日本人の土地所有を事実上禁じた法律が成立したり、日本人に帰化権はないとの最高裁の判断が出されるなどの排日の動きに対して、言論の場で対抗し、裁判闘争を支援したり、日系人の権利擁護、地位向上を求める。)
アジアの困窮者を救うために米国で設立された団体による「ララ物資」の父とまでいわれる。
日米親善と在留邦人の地位向上に貢献したことで、勲三等瑞宝章を授与された。
啄木の歌「ふるさとの山に向かいて言うことなし...」 の心境だと語ったという。
永住権は持ちながら、米国国籍は取らなかった、望郷の国際人だった。
この石碑のおかげで、ずいぶんと勉強になりました。
日本丸2世と思われる帆船を見つけて、移動します。
トッポパパ、『こら! 楽しないで、歩きなさい』
トッポ、『こっちのほうが楽なんだもん! ベェー!』
次は、日本丸2世の紹介です。
続く...................................。