8月20日のこと。千歳空港でのこと。出発がおくれているANAの機内で、たまたま乗り合わせていた松山千春が、イラついている機内の雰囲気をなごませるため、機長の許可をもらって一曲歌って、機内は拍手と歓声で盛り上がった、と全国ニュースになっていた。 いかにも松山千春らしいな、と、わたしは思った。
わたしがはじめて松山千春に会ったのは、1975年(昭和50年)のことか。NHK帯広局の宮本隆治アナウンサーの紹介だった。後に紅白歌合戦の司会などで大活躍する宮本アナウンサーは、北海道・帯広局が初任地だった。(NHKを退職してフリーになった宮本さんは今、民放の歌謡番組の司会や、テレビ東京の『和風総本家』などのバラエティー番組で活躍している)。
大学を卒業してNHKに入ったばかりの宮本さんは、帯広局でFMの番組を担当していた。「なんか面白いレコード、入ってませんか?」と、その番組の選曲のために毎日のように帯広駅前のレコード店サウンドコーナーを訪ねてくれた。
そうして、宮本アナウンサーは、わたしが主催する井上陽水や荒井由実やりりィ、浅川マキさん、そして浜田省吾のコンサートにデンスケを持ってやってきて、楽屋でかれらのインタビューを録って自分のFM番組で流した。後にも先にも、あんなに積極的で、仕事に一途な、熱烈アナウンサーはいない。(NHKだけじゃなく、当時、北海道の民放のディレクターやアナウンサーは、お願いしてもフォークソングやニューミュージックのコンサート告知などやってくれない。ましてやコンサート現場の取材など来てくれやしない。)
「足寄の”FMファンのつどい”で、おもしろい青年をみつけましたよ、ともみさん。コンサートの前座につかってみませんか?」と、宮本アナウンサーが足寄の青年・松山千春くんを紹介してくれた。
そのとき松山千春は、足寄高校を卒業してお父さんが主宰する新聞社を手伝っていた。 足寄の自宅に電話して、NHK帯広局のスタジオで会った。最初の印象は強烈だった。それは服装だ。鳶や土工の作業用のニッカズボンに地下足袋でスタジオに登場したのだ。歌った曲は、岡林信康の「チューリップのアップリケ」だったか? それと、高校を卒業をして間もないアマチュアだったが、いくつか印象的なオリジナルを持っていた。デビュー曲の「旅立ち」は、すでにこのとき歌っていた、ような気がする。
それから何度かわたしの主催するコンサートで歌ってもらった。最初は、帯広勤労者福祉センター(キンプク)だった。札幌の大学を卒業して帯広にもどっていた中島みゆきといっしょにキンプクに出演してもらったこともあった。松山千春のあとに中島みゆきが登場する‥‥‥今では考えられないことだろうね.。
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ノースプロダクション 宮本隆治 PROFILE http://www.north-pro.com/talents/miyamoto_ryuji/
日本コロムビア 松山千春オフィシャルサイト http://columbia.jp/artist-info/chiharu/