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古い曲が気になる

中城ふみ子さんは、帯広三条高等学校の先輩

2010-11-18 | 日記・エッセイ・コラム

         

Ksanjo4

わたしが通った北海道立帯広三条高等学校。1950年(昭和25年)に北海道立女学校から男女共学の帯広三条高校になった。

この校舎はもうない。高女の大先輩も、この校舎で学んだ。高女とは、北海道庁立帯広高等女学校。昭和9年に私学を接収して創立した公立の女子校だ。数年まえに亡くなった名古屋の叔母、詩人・石川律子は、「わたしは、帯広高女の卒業」とよく言っていた。自慢だったのだ。

                 

きのう、歌集『乳房喪失』の中城ふみ子さんが高校の大先輩だ、と書いた。わが帯広三条高校の前身、帯広高等女学校の卒業なのだ。高女と三条はおなじ同窓会・常磐同窓会だ。わたしたちは、帯広高女と帯広三条高校はおなじ学校と思っている。そんなわけで、きょうまた、歌集を読み返した。やはり、この歌は、すごい。

     冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己の無惨を見むか

       

許されるなら、わたしは、この歌にスペースを入れて、こう書きたい。わたしは、こういう呼吸でこの歌を読んだ。

    冬の皺(しわ) よせいる海よ 今少し 生きておのれの無惨を見むか

           

この歌は、中城さんが帯広の新津病院で乳癌の手術をうけたあと、肺への転移がみつかり、小樽の妹の家に泊まって札幌医大病院に通院する、その車中で創ったという。もうかなり衰弱していて、絶望を自覚していたときだ。

わたしは学生のとき、なんどもおなじコースを汽車に乗った。中城さんの20年後くらいだろうか。中城さんが乗ったときは、きっと蒸気機関車だった。

小樽・札幌の汽車は日本海にそって走る。夏は明るい海だが、冬の銭函周辺の海は、壮絶で暗く悲しい。岩だらけの浅い海だ。鉛色の重いシャーベット状の波が、岩に打ち寄せる。冬の、小樽のあの海を思いながら、この歌を読んで、また、泣いた。

     

きのう、パステルナークのことを書いているとき、わたしの友人も所有できない本を、手書きで写本を作っていたことを思い出した。それをきのう書いた。

きょう、その友人の橋本時比康くんに電話すると、『乳房喪失』だけじゃなく『花の原型』も、わたしから借りて全部書き写した、という。詩歌を好きな人のエネルギーは、すごい。(『花の原型』は、中城ふみ子さんの第2歌集だ。だが、すでに中城さんは亡くなっていた。死後編集された遺稿集というべきかな)

わたしは、高校一年のとき、その中城さんの歌集を帯広の古書店で買った。西1条の7丁目あたりだったろうか? ビリヤードのダイヤがあって、コーヒー豆屋があって、その並びに古書店があった。高校一年生の小遣いで買ったのだから、高い本ではなかったはずだ。

それにしても、きのう、ギョエーと驚いた。歌人・中城ふみ子さんが、わが帯広三条高校の先輩だ、と知っていた。おそらく昭和13年卒か14年卒くらいだろうが、正確に書きたい。調べた。同窓会名簿「常磐同窓会目簿」をみると、北海道庁立帯広高等女学校の6回生、昭和14年卒業生に、中城富美子(野江)と記載があった。

わたしが驚いたのは、同窓会名簿にある中城富美子(野江)さんのすぐ上の名前だ。わたしの伯母の名だ。わたしが生まれるまえ、二十歳で亡くなった父の姉。わたしの一族で伝説の才女だ。

  

新編・中城ふみ子歌集 (平凡社ライブラリー)

中城ふみ子さんは、わが帯広三条高校の大先輩、偉大な詩人だ。わたしが帯広にいたころは、中城さんの実家の野江呉服店はまだ広小路で営業していた。

アマゾンをみると、歌集以外にも中城ふみ子さんのことを書いた本が、たくさん出版される。驚く。映画になったり、渡辺淳一が小説に書いたりしたせいだろうか。


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