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ソ連共産党政府は、パステルナークのノーベル賞受賞を許さなかった

2010-11-17 | 日記・エッセイ・コラム

                              

1965年(昭和40年)の大ヒット映画に「ドクトル・ジバゴ」がある。わたしが高校生のときだった。モーリス・ジャール作曲の「ララのテーマ」もヒットした。

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    「ドクトル・ジバゴ」Lara's Theme (演奏101ストリングス)http://www.youtube.com/watch?v=4Yd2PzoF1y8&feature=related

                          

Pasternak

ボリス・パステルナーク

映画の原作は、ボリス・パステルナークの小説だ。ボリス・パステルナークは、1890年に生まれたロシアの詩人、翻訳家、小説家。1960年に亡くなった。

父親は、ロシアの印象派画家、レオニード・パステルナーク。モスクワ絵画・彫刻・建築学校の教授で、トルストイの小説「戦争と平和」の挿絵で知られた、ロシアでは著名な画家だった。母親ローザ・カウフマンはピアニストだ。パステルナークは小さいときから音楽家を志し、作曲をアレンクサンドル・スクリャーピンに師事した。だが、挫折する。そして、モスクワ大学とドイツのフィリップ大学マールブルで哲学を学んだ。

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父レオニード・パステルナークに抱かれるボリス・パステルナーク。

1914年、詩集『雲の中の双生児』(Близнец в тучах)を出版して、詩と散文を精力的に発表する。そして、第2詩集『我が妹 人生』(Сестра моя ? жизнь 1922年)が高く評価され、ロシア叙情詩の正統派詩人としてロシア国民に愛読された。

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(ロシア人は詩が好きだ。そのロシアの詩は声に出して朗読する。そのように書かれる。音韻が重要だ。それは日本もおなじだった。かって日本の和歌も声に出して朗唱するように書かれた。宮中の歌会始にその伝統は残っている。

ロシア人とおなじように、かって日本人も詩歌が好きだった。万葉集、古今集を学び、西行、芭蕉、蕪村を愛し、石川啄木、与謝野晶子、萩原朔太郎、宮澤賢治、高村光太郎、中原中也を愛読した。正月には百人一首のかるたで遊んだ)

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父親が描いた少年ボリス・パステルナーク。

しかし、1930年代、パステルナークはソヴィエト共産党政府から批判される。パステルナークの詩は、軟弱で、叙情的で、いかん、というわけだ。つまり、革命的でない、労働者農民を歌ってない、レーニンを、赤軍を、社会主義革命を賛美してない、小市民的だ、というわけだ。

叙情詩人が、国民に愛され、ヒットしたことが、社会主義者・共産主義者の嫉妬をかい、憎まれ、そして、恐れられたのだ。そして、やつら共産党政府が、若い詩人のパステルナークに目をつけたのは、なによりユダヤ人だったからだ。ユダヤ人の裕福な知識階級の出身だったからだ。

この非難をうけて、パステルナークは詩の発表をやめる。二十年ちかく詩人としての筆を折ったのだ。きっとそうしなければ、シベリアの収容所で衰弱死するか、精神病院にいれられ、電気ショックと薬で廃人にされたことだろう。

こうして、パステルナークは、シェークスピアの戯曲やグルジアなどの詩の翻訳を中心に著述をつづけた。パステルナークがロシア語に翻訳した「ハムレット」を、のちにヴィソツキーが演じて評判をとる。もちろん、ヴィソツキーは、詩人パステルナークが、ソ連の圧政のなかで翻訳した「ハムレット」だからこそ、パステルナークのシェークスピアを演じたのだろう。共産党政権の言論統制になかで、自由な芸術活動ができない状況は、ヴィソツキーもおなじだった。だからこそ、パステルナークの苦しい立場に共感したのだろうか。

世代は違っても、ともに社会主義者の圧政に生きる芸術家だ。ヴィソツキーの世代の、ソ連の芸術家にとって、ボリス・パステルナークこそ、尊敬するヒーローだった。(パステルナークは、1890年~1960年。ヴィソツキーは、1938年~1980年)

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パステルナークが詩の発表をやめ、過去の詩集が絶版にされても、ロシア人はパステルナークの詩を愛した。手書きの写本やガリ版刷りの本を、手から手に渡して読まれたのだ。借りた写本を書き写して自分のパステルナーク詩集をつくる。こうしてソヴィエト共産党の圧政のロシア、ウクライナで、KGBの目を恐れながら、パステルナークの詩が愛読された。

(わたしの友人、橋本時比康くんは、わたしの持っていた中城ふみ子歌集「乳房喪失」を、手書きで写本を作っていた。帯広三条高校一年Eクラスのときだ。あのころは、コピー機なんてものがなかった。夭折の歌人・中城ふみ子さんは、わたしの高校の大先輩(昭和14年卒業)で、わたしの伯母と雪組の同級生だった。そのころ、わが帯広三条高校は、北海道庁立帯広高等女学校といった)

             

1950年代後半、パステルナークは、小説「ドクトル・ジバゴ」を書きあげた。だが、ソ連政府は、出版を認めなかった。原稿は、イタリアに持ち出されて、まずイタリア語で出版され、すぐに英語版もでた。1957年のことだ。英語版は、1958年~1959年のニューヨーク・タイムス紙ベストセラーリストで26週間トップだった。

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(最初のロシア語版は、CIAとイギリス諜報機関が作った、という説が数年前にでていた。イタリアに運ばれる途中の原稿をCIAが写真撮影して、西側の物じゃないソ連製の紙とソ連製の活字を使って印刷したというのだ。イタリアで出版されるまえに、そのCIA私家版のロシア語「ドクトル・ジバゴ」本を、CIAがスウェーデン・アカデミーに持ち込んだ、という暴露話だ。50年もたってからの話だ。           

その話の真偽はともかく、スウェーデン・アカデミーは、1958年のノーベル文学賞をボリス・パステルナークに決定したと発表して、パステルナーク本人に連絡した。2日後にパステルナークから受賞を、驚きと喜びをもって受諾します、という電報がくる。

しかし、ソ連共産党政府は、パステルナークに、ノーベル賞を受け取るな、と強烈な圧力をかける。(おそらく、授賞式に出席すると家族の安全は保証しないぞ、とか、卑劣な脅迫をしたのだ)。そして4日後、パステルナークは、スウェーデン・アカデミーに電報をうって、ノーベル文学賞受賞を断るのだ。「わたしの属する社会にとって、この受賞の意味することを考えると、やはりお断りするべきです。どうか、わたしの自発的な辞退をせめないでください」

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ボリス・パステルナークは、この2年後の1960年に肺がんで亡くなった。映画「ドクトル・ジバゴ」が世界でヒットするのは、それから5年後のこと。小説「ドクトル・ジバゴ」がソ連で出版されたのは、イタリアで出版され、世界中でベストセラーになってから30年後の1987年(昭和60年)のことだ。ノーベル文学賞は、1989年、ボリスの息子エフゲニー・パステルナークが受け取った。「父は生きているあいだ、一度も賞というものをもらったことがなかった」

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  映画の音楽を作曲したモーリス・ジャール自身の指揮する「ドクトル・ジバゴ」の映像がある。

   モーリス・ジャール指揮「ドクトル・ジバゴ」 http://www.youtube.com/watch?v=3X-Q4nmYqc4 

    

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パステルナークが、「ドクトル・ジバゴ」を書き、亡くなった家。

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