「別れの朝」は、1971年(昭和46年)のペドロ&カプリシャスのヒット曲。このときのボーカルは、前野曜子だ。
ペドロ&カプリシャス 「別れの朝」 http://www.youtube.com/watch?v=cCATp5bR3O8&feature=related
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「別れの朝」がヒットして、グループの人気が絶頂と思われた1973年、前野曜子は、突然グループを離れた。そのあとに高橋真梨子が加入して、ペドロ&カプリシャスは、またまた「ジョニーへの伝言」「五番街のマリーへ」と大ヒットをとばす。
1977年、前野曜子は、ペドロ&カプリシャスに入るまえにいたリッキー&960ポンドに再加入してアルバムを制作した。ここで再び「別れの朝」をレコーディングしている。
このバージョンの、歌いこまれて、磨かれ、洗練された、せつなく悲しい歌唱表現が、日本語で歌われる「別れの朝」の、最高傑作ではないだろうか。わたしはそう思う。
その後、前野曜子は、映画『蘇る金狼』のテーマを歌って注目されたが、音楽シーンでの消息が無くなっていった。1988年に亡くなっていた、とずいぶん後になって報道されたらしい。肝臓病で長く入院していたという。まだ40歳の若さだった。わたしは、90年代の半ばまで亡くなったことを知らなかった。
前野曜子(リッキー&960ポンド) 「別れの朝」(1977)http://www.youtube.com/watch?v=Rn1eKM_9fuQ&feature=related
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「別れの朝」の元歌は、オーストリアのシンガー・ソングライター、ウド・ユルゲンスの Was Ich Dir Sagen Will だ。1967年(昭和42年)、まずドイツ語で歌われ、その後ウド・ユルゲンスは、フランス語でも英語でもスペイン語でも歌って、ヨーロッパで大ヒットした。日本では「夕映えのふたり」の邦題で発売された。
オリジナルの歌詞と、日本の「別れの朝」で歌われる情景は、まったく関係ない。曲だけいただいた。パクリでもなんでもない。レコードにも、テレビで放映されたときも、ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」は、『作曲・ウド・ユルゲンス、作詞・なかにし礼』と、ちゃんとクレジットされた。
外国のヒット曲に、翻訳ではなく、まったく内容がちがう歌詞をつけるのは、どこの国でもやっていることだ。直訳的な詩をつけるケースもあるが、そのヒット曲の曲想と、歌の言葉の音に刺激されて連想される、ある、男と女の情景を歌詞にする。そうして自国の歌謡曲にする。
それが、上古代から今日まで続いてる人類歌謡曲史じゃないかな。
ウド・ユルゲンス Was Ich Dir Sagen Wil http://www.youtube.com/watch?v=M5YR_npaxdY&feature=related
ウド・ユルゲンス&ホセ・カレーラス Was Ich Dir Sagen Wil http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=Q4bNA5E11z4
草泉散人さんが主宰した4月18日の”前野曜子フアンの集い”に参加しました。
ペドロさん曰く、”曜子は低血圧でアルコールも弱く、飲んだ後は朝が起きられなくステージによく穴をあけたので泣く泣くやめてもらったけど、詩(うた)の心を歌える唄の上手い子だったね”と。
、「別れの朝」は最初英語でリリースをする予定が、なかにしれいさんがさっと日本語訳を仕上げてあの歌になったとか、「夜のカーニバル」は曜子さんはラテンの唄が上手く彼女に合っていたので、当時流行っていたベッサメムー チョに対抗するものとして仲の良かったかまやつひろしさんに作曲を頼んだという話が出てきました。
技巧派の高橋真梨子、素直になんでも歌えるな松平直子、心を歌う前野曜子ということでペドロさんを含め皆さんの意見が一致したようです。